CHAPTER 01
第一章 不幻老――死なない村
死なない村で、人が死んだ。
SCENE 01 / 08
宗玄が死んだ朝
宗玄が死んだ朝、最初に異変へ気づいたのは、八歳の玄孫だった。
「ひいひいじいちゃん、息してないよ」
火鉢の炭が、ぱちりと鳴った。
誰もすぐには動かなかった。
夜明け前だった。
障子の向こうはまだ青黒く、山の形もよく見えない。昨夜から降り続いた雨が軒先から落ち、一定の間隔で庭石を叩いていた。
布団の中で宗玄は目を閉じている。
百四十六歳。
頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いていた。髪はほとんど白くなっていたが、寝顔だけを見れば昨日までと何も変わらない。
ハナは父の肩へ手を置いた。
「お父さん」
返事はない。
「お父さん」
少し揺らす。
それでも起きない。
最近は耳も遠くなっていたから、もう一度大きな声で呼ぼうとして、やめた。
胸が動いていなかった。
ハナは父の鼻先へ手を近づける。
何も感じない。
頬へ触れる。
冷たくはない。
まだ温かい。
それなのに、何かが決定的に欠けていた。
ハナは百十二年生きている。
それでも、目の前で人が死ぬところを見たことはなかった。
幼い頃、老人が死んだという話を聞いたことはある。白枯病が流行する以前には、村の墓地にも毎年のように新しい墓が増えていたと、祖母から聞かされた。
だが、それはもう昔話だった。
火事。
大怪我。
村の外での事故。
そういうことで亡くなった者はいる。
けれど、昨日までそこにいた人間が朝になってただ起きなくなるという現象は、白伏村では現実ではなくなっていた。
「先生を呼んで」
誰かが言った。
部屋の端で立ち尽くしていた曾孫が、弾かれたように走り出す。
玄孫の子供が宗玄の顔を覗き込んだ。
「寝てるだけじゃないの?」
「触っちゃだめ」
母親が子供を引き寄せる。
「どうして?」
答えられる者はいなかった。
しばらくして玄関が乱暴に開いた。
「宗玄さん!」
イサナが入ってきた。
寝巻きの上へ外套を羽織っただけで、髪も片側が跳ねていた。
「どいてください」
家族を下がらせる。
宗玄の手首を取った。
首。
胸。
瞼。
次に耳を胸へ当てる。
一度離れ、もう一度。
ハナには、その時間が異様に長く思えた。
「先生?」
返事がない。
「どうしたんですか」
イサナは宗玄の手を布団の上へ戻した。
「……亡くなっています」
ハナは眉を寄せた。
「亡くなる?」
イサナもすぐには言葉を続けられなかった。
医者だから知識はある。
呼吸の停止。
心拍の停止。
循環の不可逆的な停止。
医学書では何度も読んだ。村の外で研修を受けた頃には、死体を見たこともある。
それでも、この村の人間へ「死んだ」と伝える時にどんな顔をすればいいのかは、どの本にも書いていなかった。
「宗玄さんは」
一度息を吐く。
「死んでいます」
部屋の空気が変わった。
誰かが泣いたわけではない。
叫び声が上がったわけでもない。
ただ、全員が同じ場所に立っているのに、一人だけが急に遠くへ行ってしまったようだった。
「どうして」
ハナが聞いた。
「何があったんですか」
「まだ分かりません」
「先生、昨日まで普通でした」
「分かっています」
「熱もなかった」
「はい」
「苦しんでもいなかった」
「はい」
「じゃあ」
声が少し震えた。
「なんで死んだんですか」
イサナは宗玄の顔を見た。
苦悶はない。
むしろ穏やかだった。
昨夜。
ハナが水を飲ませた時、宗玄は掠れた声で言った。
「……ああ」
「どうしたの」
「やっと眠い」
最近は一日の大半を眠っているくせに、とハナは思った。
それでも、
「ゆっくり寝て」
と答えた。
宗玄は小さく頷いた。
それが最後の会話になった。
窓の外が白み始める。
雨雲の隙間から、朝が来る。
その朝。
白伏村では、百二十一年と四ヶ月ぶりに、人間が自然に死んだ。
三日後。
シキは白伏村の入口で、鞄の中身をほとんど全部ぶちまけていた。
「絶対あるから」
村人の男は黙って見ている。
紙。
筆。
測量具。
包帯。
干し肉。
靴下。
半分食べた焼き菓子。
折り畳んだ地図。
木彫りの魚。
「それは?」
男が聞いた。
「今関係ない」
「そうですか」
「絶対入れたんだけどな」
「証明書をですか」
「うん」
「魚じゃなく?」
「魚は買った」
「なぜ」
「分かんない」
男の目が少し不安になる。
シキは上着を探った。
ない。
腰袋。
ない。
鞄の底。
ない。
「……あれ?」
「本当に巡界衆の方ですか」
「そう」
「証明書が」
「待ってって」
背中を触る。
内ポケット。
紙。
「あった」
折れた身分証を取り出す。
《巡界衆 現地観測員 シキ》
印章もある。
男は念入りに確認し、ようやく頷いた。
「確かに」
「だから言ったじゃん」
「途中からかなり不安でした」
「俺も」
地面の物を鞄へ戻していく。
木彫りの魚も入れる。
「それ、必要なんですか」
「いらない」
「捨てないんですね」
「金払ったから」
鞄を背負い直す。
肩が痛い。
朝から山道を歩き続けていた。
途中までは荷車に乗せてもらったが、最後の数里は徒歩だった。前日の雨で道はぬかるみ、靴も泥まみれになっている。
「遠すぎる」
「昔からここです」
「だからなんでこんな山奥に村作ったの」
「祖先に聞いてください」
「まだ生きてたりする?」
男は少し考えた。
「四代前なら生きています」
シキは足を止めた。
「……本当に?」
「冗談です」
男は初めて少し笑った。
「三代前までです」
「そっちも十分おかしいんだけど」
白伏村へ入る。
ぱっと見たところ、ごく普通の山村だった。
田畑。
水路。
古い木造家屋。
軒下に吊るされた野菜。
鶏。
犬。
子供。

ただし、歩いている人間の年齢感覚がおかしい。
米俵を抱えた老人を、さらに老いた女が怒鳴っている。
「腰やるって言ってるだろ!」
「百年前から言ってる!」
シキが振り返る。
「今の人何歳?」
「俵を持っている方が百九歳です」
「怒鳴ってる人は?」
「母親です」
「……何歳」
「百三十五」
「本当に?」
「今度は本当です」
シキは二度見した。
百三十五歳の女が、百九歳の息子の腰を心配している。
子供たちはそれを気にもしていない。
シキは鞄から本部の依頼書を取り出した。
《白伏村にて、長期間確認されなかった死亡事例発生。原天類似存在の目撃情報あり。現地確認を要す》
一人死んだ。
普通なら、それだけで巡界衆が派遣されることはない。
殺人なら役所。
病死なら医者。
事故なら地元の管理者。
巡界衆は各地の怪異、神性存在、説明不能現象を記録する組織だ。
基本は、
見る。
聞く。
測る。
書く。
そして、できるだけ早く結論を出さない。
上司のゲンがいつも言う。
――判断する前に、記録しろ。
シキはその考え方自体は嫌いではなかった。
記録を書くのは嫌いだった。
「死人が出たって?」
歩きながら尋ねる。
案内役の男の表情から、さっきまでの軽さが消えた。
「はい」
「死因は老衰って聞いたけど」
「そうです」
「じゃあ普通じゃん」
男が止まる。
シキも止まった。
「ここでは普通じゃありません」
「どういうこと」
男は少し先を指した。
村の端。
斜面。
墓地だった。
「行きましょう」
墓石は、途中までは多かった。
斜面いっぱいに並んでいる。
雨と苔で文字の読めないものもある。
しかし、上へ行くにつれて急に数が減る。
そして、ある年代から完全に途切れていた。
シキは古い石碑の前にしゃがみ込む。
日付。
百二十一年前。
隣。
同じ年。
その隣も。
「最後の墓は?」
「白枯病の頃です」
「それ以降は?」
「事故で亡くなった方や、村外で亡くなった方の墓が少しあります。けれど、老衰や病気で亡くなった人はいません」
「百二十年以上?」
「はい」
シキが顔を上げる。
「じゃあ、みんな何歳まで生きんの」
「分かりません」
「一番上は」
「百六十八です」
「元気?」
「昨日、屋根直してました」
「やめさせろよ」
男は苦笑する。
シキは墓地を見る。
新しい墓がない。
長い年月。
一人も、普通には死んでいない。
案内役が言った。
「白伏では、人は死にません」
シキは今度は笑わなかった。
「少なくとも」
男は続ける。
「村の中では」
宗玄の身体は、まだ自宅にあった。
「これ、いつまで置くの」
シキが聞いた。
「分かりません」
イサナが答える。
「分からないって」
「葬式のやり方が分からないんです」
「……そこから?」
「村で最後にまともな葬儀をやった人は、もう誰も生きていません」
「村の外で?」
「そうです」
腐敗を抑える処置はしてある。
室内には薬草と消毒薬、それでも隠しきれない死体の臭いがわずかに混じっていた。
布団の中に宗玄が横たわっている。
百四十六歳。
「老衰?」
「何度調べても」
「外傷は」
「ありません」
「毒」
「簡易検査ではなし」
「病気」
「あります」
「どれ」
イサナが呆れた顔をする。
「百四十六歳の人間にする質問じゃありません」
「それもそうか」
シキは手袋をつけた。
首。
腕。
頭部。
口腔。
服の下。
外から見える異常はない。
神性痕も見当たらない。
「直接の死因は?」
「老衰としか」
「普通だな」
「ここでは普通じゃありません」
「今日それ三回聞いた」
「三回言わないと分からなそうなので」
イサナが厚い帳面を机に置く。
「死亡記録です」
ページをめくる。
名前。
年齢。
病名。
日付。
ところが、ある年を境に死亡者が急激に減る。
「白枯病」
シキが文字を読む。
「知ってますか」
「名前は」
古い感染症。
高熱。
呼吸困難。
白斑。
末期には急に静かになり、呼吸が浅くなる。
《白枯れの凪》。
凪のあとには朝が来ない。
昔の流行地では、そんな言い方をしたという。
「この村も?」
「大流行しました」
イサナが頁をめくる。
《死者七》
《死者十二》
《南家五名》
《埋葬追いつかず》
筆跡が途中から乱れている。
そして、
突然。
止まる。
「ここから?」
「はい」
「なんで」
イサナは窓の外を指した。
白い祠。
「天導様です」
祠は妙に綺麗だった。
山村にある古い宗教施設というより、そこだけ別の場所から切り取ってきたように白い。
屋根。
柱。
壁。
汚れが少ない。
中央には金色の円。
奥の像。
白い若者。
性別の判断しづらい顔。
閉じた目。
背後の巨大な円。
十本の腕。
胸の中心の黄金。
「腕多いな」
イサナが横を見る。
「最初の感想がそれですか」
「綺麗なのは見れば分かる」
「本人はもっと綺麗ですよ」
「会ったことある?」
「あります」
「いつ」
「患者が死にかけた時」
「助かった?」
「はい」
即答だった。
祠の前を通る村人たちは、誰も強制されていないのに自然に頭を下げる。
「信仰?」
「感謝です」
「違う?」
「最初は違ったと思います」
隣の資料庫。
白枯病当時の記録が残っていた。
《白き御方現る》
粗い挿絵。
巨大な円。
複数の腕。
倒れた人々。
《触れし者、息を返す》
《凪より戻る》
《熱下がる》
《血色戻る》
その後、死亡者の記録が激減していく。
「これ、本当にやった?」
「記録だけなら疑う余地はあります」
イサナは言う。
「でも今も起きます」
「今も?」
「天導様は呼ばれれば現れます。必ずではありませんが」
「必ずじゃない」
「遠い場所、同時に複数の場所、誰にも発見されていない場合。間に合わないことはあります」
「じゃあ万能じゃない」
「神だから万能だと誰が決めたんですか」
「俺じゃないよ」
イサナは棚から別の記録を出す。
もっと古い。
墨絵。
山。
細い八本の脚。
中央に老人の顔。
横に一行。
《山中に八脚の異形を見たり》
シキはしばらく見る。
「これが不幻老?」
「そうではないかと」
「何したの」
「何も書いてありません」
「ただいた?」
「ただいたようです」
シキは天導の記録へ視線を戻す。
何十頁もある。
救済。
感謝。
命。
白い神。
一方、不幻老は一行。
「人気出ないわけだ」
「人気を気にするようには見えませんけど」
「会ったことある?」
「ありません」
シキは古い絵を見る。
脚の数を数えた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
その日の午後。
シキは村を歩いた。
本部から来た巡界衆が珍しいらしく、子供が何人かついてくる。
「怪物倒す人?」
「倒さない」
「じゃあ何するの」
「見る」
「それだけ?」
「あと書く」
「弱そう」
「うるさいな」
八歳くらいの男の子が鞄を触ろうとする。
「触るな」
「何入ってるの」
「魚」
「魚?」
「木の」
「なんで?」
「俺が聞きたい」
子供は笑った。
「名前は?」
「ユウ」
「お前か」
「何が?」
「別に」
ユウはシキの横を歩く。
「死んだ人見た?」
「見た」
「どんな感じ?」
シキは少し考える。
「寝てるみたいだった」
「怖かった?」
「俺は別に」
「俺、死ぬの怖い」
「八歳でそれ考える?」
「昨日みんな話してたから」
ユウは道端の石を蹴る。
「天導様がいるのに死んだんでしょ?」
「そうみたい」
「じゃあ天導様、負けたの?」
シキは足を止めた。
「誰に?」
「死神」
「まだ死神って決まってない」
「でも死んだよ」
子供の論理は簡単だった。
シキには反論しづらい。
「調べてる途中」
「じゃあ分かったら教えて」
「気が向いたら」
「約束」
「してない」
百三歳の男は畑で鍬を振っていた。
「死にたい?」
いきなり聞くと、男は鍬を止める。
「なんで?」
「この村そういう話になってるから」
「死にたくないよ」
「百三だよ?」
「だから?」
「もう十分とか」
「全然」
男は笑った。
歯が少ない。
「来年、玄孫が嫁もらう」
「へえ」
「その子も見たい」
「何歳まで生きる気?」
「知らん」
「ずっと?」
「飯がうまい間は」
「健康だな」
男はまた鍬を振り始める。
九十七歳の女。
縁側で餅を焼いていた。
「死ぬ?」
「嫌」
「即答だね」
「痛そう」
「死んだことないでしょ」
「だから怖い」
それもそうだった。
百二十四歳。
寝たきり。
娘が世話をしている。
本人はほとんど喋らない。
「大変?」
「大変ですよ」
「でも?」
娘が少し笑う。
「父なので」
「本人が死にたいって言ったら?」
その笑顔が止まった。
シキは「あ」と思ったが遅い。
「……分かりません」
娘は父の口元を濡らす。
「そんなこと言われたことないので」
シキは何も言わなかった。
次。
百三十九歳の女。
窓辺。
「もう朝はいらん」
開口一番そう言った。
「朝?」
「毎日来る」
「まあ来るね」
「若い頃は好きだった」
「今は?」
「またか、と思う」
シキは向かいへ座る。
「死にたい?」
女は眉を寄せた。
「そういう言い方は好きじゃない」
「ごめん」
「でも、もう終わってもいいとは思う」
「天導には」
「言ったことない」
「なんで」
「助けてくれと頼んだこともない」
「じゃあなんで終わらないの」
女は外を見る。
「知らん」
シキは帳面へ書く。
《長寿状態への評価は個人差大》
その下。
《全員が苦しんでいるわけではない》
さらに。
《全員が幸福でもない》
「何書いてるんですか」
イサナが後ろから覗き込む。
「見るなよ」
「字が汚い」
「内容を見ろ」
「『個人差大』」
「伝わるだろ」
「報告書ですよね?」
「後で綺麗にする」
「絶対しない顔ですね」
シキは帳面を閉じる。
歩きながら、何となく言った。
「選べたらいいのに」
「何を」
「死ぬかどうか」
イサナの足が止まった。
「そんな簡単ですか」
「簡単とは言ってない」
「死にたいと思った瞬間に死ねるなら、それでいいんですか」
「そこまでは」
「気持ちは変わります」
「分かってる」
「死んだあとには変えられません」
シキが振り返る。
「じゃあ、生きたいって思うまでずっと生かす?」
「そういうことを言っているんじゃありません」
「俺も」
少し沈黙。
イサナが先に歩き始める。
「医者は」
シキが言う。
「基本、生かしたい?」
「患者によります」
「意外」
「でも」
イサナは前を向いたまま答えた。
「救えるのに死なせることは、簡単には選べません」
「自分のことじゃなくても?」
「自分のことじゃないからです」
シキは、その言葉を帳面には書かなかった。
宗玄の日記は十二冊あった。
五十代頃から書き始めたらしい。
初期の字は大きく、力強い。
後半になるにつれ細くなる。
《天導様がおられなければ、私は幼くして死んでいた》
宗玄は白枯病に罹患している。
《母も救われた》
次の行。
《妹は間に合わなかった》
シキはそこを二度読む。
「妹は死んでる」
ハナが頷く。
「天導様が村へ来られる前だったそうです」
「宗玄は天導を恨んでなかった?」
「どうして?」
「妹は救われなかったから」
ハナは少し考える。
「父は、間に合わなかったのだと言っていました」
「天導が悪いとは?」
「聞いたことがありません」
ページを進める。
結婚。
子供。
畑。
水害。
家の建て替え。
祭り。
《孫が生まれた》
《曾孫》
《玄孫》
《天導様のおかげで、この景色を見ることができた》
宗玄は長く生きたことを喜んでいた。
少なくとも、何十年もの間は。
百二十を越えた頃から文章が短くなる。
《畑へ出られず》
《今日は飯がうまかった》
《玄孫の子が歩く。よい日》
《今日も朝が来た》
数頁後。
《今日も朝が来た》
さらに後。
《まだ朝が来る》
最後の冊子は、数日に一行。
やがて数週間に一行。
その最後。
たった一文。
《もう十分だ。》
シキは指を止めた。
「知ってた?」
ハナは父の日記ではなく、庭を見ていた。
「何となく」
「終わりたかったこと」
「はい」
「直接聞いた?」
「いいえ」
「じゃあ」
シキは迷った。
さっき寝たきり老人の娘へ聞いて失敗したばかりだ。
それでも聞く。
「助けようとは思わなかった?」
「何をですか」
「終わるのを」
ハナがシキを見る。
怒ってはいなかった。
それが余計に痛かった。
「死んでほしいなんて」
ハナは日記へ目を落とした。
「娘が言えるわけないでしょう」
シキは黙る。
「でも」
「はい」
「分かってた」
「分かっていたから」
ハナの指が最後の頁へ触れる。
「余計に言えなかったんです」
部屋の向こうから子供の声がする。
普通の生活の音。
「嫌いだった?」
シキが聞く。
「父が?」
「長生きしたこと」
「まさか」
ハナは少し笑った。
「私を百十二まで育ててくれましたから」
「それ育ててる期間長くない?」
「途中から私が父を育てているようなものでした」
初めて二人とも笑った。
それからハナが言う。
「父は、本当にたくさん喜んでいましたよ」
「うん」
「だから」
笑顔が消える。
「最後に終わりたいと思ったことまで、昔の喜びを嘘にするものではないと思います」
シキは日記へ視線を戻した。
この言葉は記録しておいた方がいい。
そう思ったが、すぐには筆を取れなかった。
「山へ行ったのは?」
「亡くなる四日前です」
「どこまで?」
「古い参道の途中まで、孫が」
「そこから一人?」
「本人がそうすると」
「歩けた?」
「杖を使えば少し」
「なぜ山に」
「分かりません」
「不幻老に会うため?」
ハナの表情が固くなる。
「死神に?」
「死神かはまだ」
「でも父は死んだ」
「それはそう」
「不幻老が現れるようになった」
「うん」
「父は山へ行った」
「うん」
「その四日後、死んだ」
「うん」
「なら」
ハナの声に、初めて怒りが混じった。
「他に何があるんですか」
シキは答えなかった。
証拠だけ並べれば、十分怪しい。
「会ってくる」
「一人で?」
「その方がいい」
本当は、人を連れて歩くのが面倒という理由もある。
だが、山へ入る前に、シキは宗玄を山まで連れていった孫から話を聞くことにした。
宗玄が山へ行きたいと言い出した時、家族は誰も本気にしなかったらしい。
「山?」
孫のソウタは、聞き間違えたと思った。
その日の宗玄は縁側に座っていた。
最近では、そこまで移動するだけでも誰かの手が必要だった。
膝には毛布。
手には杖。
「山」
宗玄はもう一度言った。
声は弱い。
だが、聞き間違いではなかった。
「何しに」
宗玄は庭の向こうを見る。
白伏の北。
木々の重なった山。
「会いたい」
「誰に?」
返事はなかった。
「爺ちゃん」
「行けば分かる」
ソウタは眉を寄せた。
「無理だよ」
宗玄がこちらを見る。
目は濁っている。
昔ほど見えていない。
それでも、その時だけは妙に意志が強かった。
「行く」
「歩けないだろ」
「お前がおる」
「俺?」
「運べ」
「……簡単に言うなあ」
宗玄は笑った。
その笑い方は、ソウタが子供だった頃と変わらなかったという。
結局、背負い籠のような簡易椅子を作った。
村の北。
古参道。
雨が降る前だった。
道は乾いている。
それでも宗玄を背負って山道を登るのは大変だった。
「重い」
ソウタが言う。
背中から、
「年寄りに失礼じゃ」
と返ってきた。
「百四十六は年寄りだろ」
「まだ若い」
「誰と比べてんの」
宗玄が小さく笑う。
途中、古い橋の前で止まった。
谷を跨ぐ木橋。
板の一部が腐り、ところどころ穴がある。
縄には《立入注意》の札。
「ここまで」
ソウタは宗玄を降ろした。
「これ以上は無理」
宗玄が杖をつく。
自分で立つ。
脚が震えていた。
「爺ちゃん」
「少しだけじゃ」
「転ぶぞ」
「転んだら拾え」
「そういう話じゃない」
宗玄は橋へは行かず、その横の細い獣道へ向かった。
「待って」
ソウタが腕を掴む。
宗玄は止まる。
「一人で行く」
「何言ってるの」
「一人で話したい」
「誰と」
宗玄は少しだけ山の奥を見る。
「昔からおる奴じゃ」
ソウタの背筋が冷えた。
村の昔話。
八本脚。
山にいる老人面。
「不幻老?」
宗玄は答えなかった。
それが答えだった。
「駄目だ」
「なぜ」
「あれが何なのか分からない」
「だから会いに行く」
「天導様に相談すれば」
宗玄は首を振った。
「天導様には」
そこで一度、言葉を止める。
「十分してもらった」
ソウタは、その言い方が妙に気になった。
「ここで待ってる」
宗玄が言う。
「何かあったら呼べ」
「何もなかったら?」
「それでも呼べ」
宗玄はまた笑った。
「心配性じゃな」
「誰のせいだよ」
宗玄は獣道へ入っていった。
杖。
一歩。
また一歩。
異様に遅い。
それでも止まらなかった。
ソウタはその背中をずっと見ていた。
やがて木々の奥へ消える。
一時間ほど経った。
もっと長かったかもしれない。
宗玄が戻ってきた。
一人だった。
「爺ちゃん!」
ソウタが駆け寄る。
顔を見る。
何かされた様子はない。
血もない。
傷もない。
「会った?」
「うむ」
「何された?」
「別に」
「何話したの」
宗玄は答えなかった。
代わりに空を見た。
夕方。
雲の向こうから薄い陽が差している。
「今日は」
宗玄が言う。
「よく眠れそうじゃ」
ソウタはその言葉を、ただ疲れただけだと思った。
だから、
「帰ったら寝ろ」
と言った。
宗玄は頷いた。
背負われる前。
もう一度だけ、山を振り返った。
そして小さく、
「もうよい」
と言った。
ソウタには、誰へ言った言葉なのか分からなかった。
話を聞き終えてから、シキは一人で山へ入った。
古参道はほとんど道ではなかった。
草。
苔。
倒木。
前日の雨で地面は緩い。
ソウタから聞いた橋もあった。
谷を跨ぐ古い木橋。
縄。
《立入注意》。
板の一部は黒ずみ、梁の端には亀裂が走っていた。
シキはしゃがんで見る。
「これ直さないのか」
今はほとんど使われないらしい。
宗玄も橋を渡ってはいない。
橋の手前から脇道へ入った。
シキも同じ道を行く。
一人になる。
山の音。
風。
濡れた土。
鳥。
「さて」
シキは木々を見る。
「死神探しね」
口に出すと馬鹿らしい。
記録では、人を殺したことすらない。
ただ山にいた八脚の異形。
それが人が死んだ瞬間、死神になる。
「それだけで犯人扱いは可哀想だな」
その時。
前方の木が動いた。
正確には、木だと思っていたものが木ではなかった。
細い。
節がある。
異様に長い。
一本。
地面から浮く。
次。
さらに次。
シキの手が自然に腰の小刀へ伸びる。
戦うためではない。
何もしないよりましだからだ。
木々の奥で巨大なものが起き上がる。
脚。
一本。
二本。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
骨。
木の根。
蜘蛛。
老人。
どれとも違う。
八本の細い脚の中心に、大きな老人面があった。
古木のようでもあり、腐食した青銅のようでもある。
長い髭。
異様に高い帽子のような頭部。
人間の身体にあたるものがどこにあるのかは分からない。
目だけは、妙にこちらを見ている感じがした。
「……不幻老?」
老人面の口が動く。
「そう呼ぶ者もおる」

声は意外に普通だった。
山が震えるような音でもない。
ただの老人の声に近い。
「本人は?」
「何が」
「自分の名前」
「名など、人が呼ぶためのものじゃろ」
「じゃあ不幻老でいい?」
「好きにせい」
シキは帳面を取り出す。
《不幻老。人間側呼称を否定せず》
顔を上げる。
「宗玄知ってる?」
「会った」
筆が止まった。
「いつ」
「少し前」
「何しに来た?」
「知らん」
「会ったって言ったじゃん」
「何しに来たかは本人へ聞け」
「死んでる」
不幻老の目が、ほんの少し動いた。
「そうか」
「知らなかった?」
「今知った」
「お前が殺した?」
不幻老は少し首を傾げる。
「なぜそう思う」
「死なない村で百二十一年ぶりに人が死んだ。死ぬ四日前にお前と会ってる」
「なるほど」
「なるほどじゃない」
シキは一歩近づく。
「村じゃお前、死神って呼ばれてる」
「死神?」
「死を司る神」
不幻老は、心底不思議そうな顔をした。
「死など、司っておらん」
「じゃあ何の神?」
少し間。
「知らん」
「そこは知っとけよ」
口元がほんの少し動く。
笑ったのかもしれない。
「宗玄に何した」
不幻老は答えない。
「話しただけ?」
「少し」
一本の脚が地面を擦る。
「緩めた」
「何を」
「固まりすぎておった」
「だから何が」
「結果が」
シキが眉を寄せる。
「結果?」
「終われぬようになっておった」
「宗玄が?」
「そうじゃ」
「天導のせい?」
不幻老は山の下を見る。
「白いのが何をしたか、わしは知らん」
「じゃあなんで触った」
「固まっておったから」
「固まってたら緩めるの?」
「時々」
「趣味?」
「何じゃそれは」
「本人は頼んだ?」
「終わらぬとは言っておった」
「終わりたいって?」
「そこまでは知らん」
「じゃあ勝手に?」
「そうとも言える」
シキは額を押さえる。
「お前だいぶ危ないな」
「そうか」
「もし本人が生きたかったら?」
「生きればよい」
「でも死んだ」
「死ねるようになったからの」
「だからお前が殺したんじゃないの?」
不幻老は静かにシキを見る。
「願いなど、叶えておらん」
「何したか聞いてる」
不幻老は八本の脚を少し畳む。
「終わらぬと決まっておったものを、決まっておらぬものにしただけじゃ」
風が抜けた。
シキは筆を動かさなかった。
「死ぬかもしれない」
「そうじゃな」
「死なないかもしれない」
「そうじゃな」
「結果は」
「わしは決めておらん」
「じゃあ誰が」
「知らん」
「出た」
「知らぬものは知らん」
「便利だな」
「知ったふりをするよりましじゃろ」
それはそうだった。
腹立つが。
「宗玄、最後に何か言った?」
「今日は眠れそうじゃ、と」
シキの目が止まった。
ハナの話。
――やっと眠い。
「どんな顔だった」
不幻老は少し考えた。
「普通じゃ」
「普通」
「笑ってはおらん。泣いてもおらん」
「怖がってた?」
不幻老は答えなかった。
シキはしばらく待った。
やがてため息をつく。
「また来る」
「来ればよい」
「逃げない?」
「なぜ逃げる」
「犯人なら」
不幻老は少し首を傾げる。
「なら、わしは犯人ではないのじゃろ」
「それ証拠にならないから」
山を下る。
途中、一度振り返る。
不幻老はもう木々の中へ戻っていた。
八本。
何となく、もう一度数えた。
八本だった。
村へ戻った頃には夜になっていた。
腹が減っている。
「飯……」
宿へ向かう途中。
一軒の家から女が出てきた。
黒い旅装。
髪を後ろで束ねている。
腰には黒い短刀。
装飾はない。
鞘の根元にだけ、古い文字が刻まれている。
家の中から老人の声。
「今日じゃだめか」
女が振り返る。
「今日はやめておきます」
「昨日も聞いただろ」
「昨日のあなたと、今日のあなたは同じですか」
「変わらん」
「では明日、もう一度聞きます」
老人は不満そうだったが戸を閉めた。
女がこちらを見る。
「こんばんは」
「こんばんは」
シキは短刀を見る。
女も気づく。
「気になります?」
「まあ」
「見ますか」
「見せるの?」
鞘ごと少し持ち上げる。
近くで見る。
刃の根元。
《慈悲》
の古字。
シキは眉を寄せる。
「物騒なのに慈悲なんだ」
「物騒かどうかは使い方次第です」
「何に使う?」
「必要な時に」
「何が必要」
「あなたは巡界衆ですね」
質問を逸らされた。
「分かる?」
「鞄」
「そんな特徴ある?」
「あります」
「そっちは」
「ナギ」
「名前じゃなくて」
「原天還理衆」
聞いたことがないわけではない。
本部の資料で見た気もする。
かなり端の方。
「何する組織?」
「色々です」
「今は?」
ナギは閉じた家を見る。
「本人の意思確認」
「何の」
「終わりたいそうです」
シキの顔が少し変わる。
「死にたいって?」
「本人は」
「その短刀で?」
答えない。
「今日やらなかったのは?」
「気持ちは変わるから」
「何回確認する?」
「決めていません」
「何回ならいい?」
ナギは逆に聞いた。
「何回なら人の意思は本物になります?」
「……質問返し」
「三回?」
「十回?」
「百回?」
ナギは淡々としている。
「迷わなくなるまで聞けばいいんですか」
「そうじゃない?」
「迷わない人間っています?」
シキは黙った。
一瞬、不幻老の顔が浮かんだ。
面倒くさい奴ばかりいる。
「宗玄知ってる?」
ナギの足が止まる。
ほんの少し。
それで十分だった。
「知ってる」
「はい」
「会った?」
「はい」
「何しに」
「依頼を受けていました」
シキの腹が盛大に鳴った。
かなり大きい。
二人とも黙る。
ナギがシキの腹を見る。
「今の忘れて」
「難しいですね」
食堂は閉まりかけていた。
ナギが店主と顔見知りで、汁物と握り飯を出してくれた。
シキは一口食べる。
「で」
「飲み込んでください」
飲む。
「宗玄から何頼まれた?」
「還してほしい、と」
「還す?」
「私たちはそう呼びます」
「死なせる?」
「その言い方を嫌う者が多いです」
「ナギは」
「どちらでも」
「意外」
「言葉を変えれば行為が変わるわけではありませんから」
シキはナギを見る。
思っていたより宗教的ではない。
「宗玄の言葉は?」
「終わらせてほしい」
「いつから」
「二ヶ月前」
「何回会った」
「七回」
「確認は」
「明確には三度以上」
「三回ならいい?」
「いいとは言ってません」
「じゃあ何回聞けばいい」
ナギは茶を飲む。
「私にも分かりません」
「また分からないか」
「分からないこと多いですよ」
「今日だけで二人目」
「誰と一緒にしないでください」
「不幻老」
ナギの目が少し変わる。
「会ったんですか」
「うん」
「何と言っていました」
シキは説明する。
宗玄。
終われない状態。
それを緩めた。
結果を決めたわけではない。
ナギは聞き終えて、長い間何も言わなかった。
「どう思う?」
「分かりません」
「やっぱり」
「ただ」
短刀の鞘に指を置く。
「本当なら、殺したとは少し違うでしょうね」
「宗玄死んでるけど」
「はい」
「不幻老が何もしなければ生きてた」
「おそらく」
「じゃあ殺したとも言える」
「言えます」
「どっち」
「どちらでもあるのかもしれません」
「ずるいな」
「世界に文句を言ってください」
シキは汁を飲む。
少し冷めていた。
「宗玄、最後は迷ってた?」
「はい」
「終わりたいのに?」
「長く生きたことに後悔はない」
ナギは一つずつ言う。
「天導に感謝している」
「家族も好きだ」
「でも」
少し間。
「もう十分だ、と」
シキは箸を止めた。
「日記にも同じこと書いてた」
「そうですか」
「だから次にまた聞こうと」
「はい」
「その前に死んだ」
「はい」
「誰も殺してない?」
ナギはすぐには答えない。
やがて、
「死には」
静かに言う。
「いつも犯人が必要なんですか」
シキが答える前に、
外で大きな音がした。
荷車。
悲鳴。
誰かが叫ぶ。
「ユウ!」
シキとナギは同時に立ち上がった。
荷車は道の端へ横倒しになっていた。
積み荷の木材が散乱している。
その近く。
小さな身体。
「ユウ!」
母親が泣いていた。
子供の頭の下。
血。
イサナが駆けてくる。
「触らないで!」
脈。
呼吸。
瞳。
胸。
首。
顔色が変わる。
「先生」
母親――ミナがイサナへ縋る。
「助かりますよね」
「……」
「先生」
「頭を強く打っています」
「だから?」
イサナが返事をしない。
シキにも分かった。
まずい。
呼吸が浅い。
さっきまで自分の鞄を触っていた子供。
「巡界衆は怪物倒さないから弱い」
と笑っていた。
誰かが叫ぶ。
「天導様を!」
祠へ走る。
ミナも叫んだ。
「お願いします!」
誰に言っているのかも分からない。
「お願いします、助けて!」
その声に応えるように、
村の中央が白くなった。
シキは、光そのものが歩いてくるのかと思った。
人影。
白い衣。
白磁の肌。
性別の境界が曖昧な若い顔。
閉じた瞼。
頭上に、細い尖塔を幾重にも束ねたような冠。
背後の巨大な完全円。
二本の腕。
その後ろに、さらに八本。
合計十。
すべての手が開かれていた。
祠の像。
同じ姿。
しかし、本物を見た瞬間、像を作った人間が何一つ再現できていなかったことが分かった。
異形であるはずなのに、怖くない。
むしろ見ているだけで、大丈夫なのではないかと思えてしまう。
天導はユウの横へ膝をついた。
ミナが両手を合わせる。
「お願いします」
「何でもします」
「お願いです」
天導がユウへ触れる。
「あなたが苦しむ必要はありません」
白い光が指先から広がる。
魔法という言葉で片づけるには、あまりに静かだった。
出血が減る。
呼吸が深くなる。
青かった唇へ血色が戻る。
イサナがその変化を一つずつ確認する。
「脈……戻ってる」
「呼吸も」
ミナが名前を呼ぶ。
「ユウ」
瞼が震えた。
「……おかあさん」
ミナが泣いた。
大声で。

天導の手へ触れようとして、寸前でためらい、胸の前で手を合わせる。
「ありがとうございます」
その時。
天導の胸の黄金が、ほんの少し明るくなった。
シキは見た。
一瞬だけ。
だが、そんなことより。
今死にかけていた子供が、母親の手を握っている。
「……すげえ」
それしか出なかった。
天導はイサナを見る。
「生きられる状態へ戻しました」
「完治では?」
「内部に損傷が残っています」
「分かりました。あとは私が」
天導が頷く。
ミナは何度も頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「本当に」
天導は一度も感謝を要求しない。
当然という顔もしない。
ただ、ユウが生きていることを確かめている。
シキは思った。
これを嫌う理由があるのか。
少なくとも今は、一つも思いつかなかった。
天導が立つ。
シキが呼ぶ。
「天導」
白い顔が向く。
「何でしょう」
「こういうの、いつもやってるの」
「助けを求められれば」
「間に合わない時は?」
「あります」
「全員は助けられない?」
「はい」
そこを誤魔化さない。
「それ嫌じゃない?」
天導は少しだけ沈黙する。
「嫌です」
シキは意外そうに見る。
「だから」
天導は続ける。
「できる限り、助けたいと思っています」
シキは返事をしなかった。
天導は別の怪我人の方へ歩く。
その背中を、ナギが見ていた。
「嫌い?」
シキが聞く。
「誰を」
「天導」
「いいえ」
「還理衆なのに」
ナギはユウとミナを見る。
「助かって良かったと思っています」
「じゃあ何で」
「何がですか」
「いや」
シキは言葉を止めた。
まだ聞くには早い気がした。
その夜。
白伏村では遅くまで祠の灯りが消えなかった。
ユウが助かった。
その話は、日が沈むより早く村中へ広まった。
「頭からあんなに血が出てた」
「先生も駄目だと思ったらしい」
「天導様が来てくださった」
「やっぱり天導様は」
シキは宿の二階から、祠へ向かう人々を見ていた。
花。
果物。
酒。
白い布。
それぞれが何かを持っていく。
宗玄が死んだ時とは、真逆の顔をしている。
安堵。
感謝。
喜び。
「分かりやすいな」
シキが呟いた。
後ろでイサナが薬箱を閉じる。
「何がです」
「昨日まで死ぬの怖いって言ってた人たち」
「今も怖いですよ」
「だから?」
「助けてくれる存在がいると確認できた」
イサナは窓の外を見る。
「嬉しいでしょう」
「まあね」
「あなたも助かったと思ったでしょう」
シキは思い出す。
ユウが、
「おかあさん」
と呼んだ瞬間。
「そりゃ」
否定できない。
「じゃあ何が引っかかるんですか」
「別に引っかかってない」
「顔が引っかかってます」
「どんな顔」
「面倒なこと考えてる顔」
「失礼だな」
祠の前。
ミナがいる。
天導像の前へ何度も頭を下げている。
ユウ本人は診療所で安静。
「イサナ」
「はい」
「ユウ、天導が来なかったら」
イサナは即答しなかった。
それだけで分かる。
「たぶん死んでいました」
「そっか」
「だから私は」
イサナがシキを見る。
「天導様を疑う人の気持ちが、正直あまり分かりません」
「俺、疑ってる?」
「まだ」
「まだ?」
「そのうち面倒なこと言いそうなので」
「評価低いな」
下から村人たちの声が上がった。
「不幻老を放っておいていいのか」
シキの表情が変わる。
別の声。
「宗玄さんの次は誰だ」
「天導様が助けても、あいつが死なせるなら意味がない」
「山から追い出せ」
シキは窓辺へ近づいた。
祠の横。
十人ほどが集まっている。
年寄り。
若者。
宗玄の親族もいる。
イサナが眉を寄せる。
「始まりましたか」
「何が」
「昨日からです」
「聞いてない」
「あなた寝てたので」
「俺健康なんだけど」
「山歩きして疲れたんでしょう」
下では、宗玄の甥にあたるタツが話している。
「天導様はユウを救ってくださった」
「宗玄さんを死なせたのは、あの化け物だ」
「昔から山にいた!」
別の老人が言う。
「昔からいたなら、今まで何もしなかっただろ」
「今した!」
「証拠は」
「宗玄が死んだのが証拠だ!」
言い争い。
村は一枚岩ではない。
シキはそこを見た。
「ああ」
少し安心した。
「何です?」
「全員が同じこと考えてるわけじゃないんだなって」
「当たり前でしょう」
「物語だと村人ってまとめて襲ってくるから」
イサナが真顔になる。
「何の話ですか」
「忘れて」
祠の前。
ハナが来た。
周囲が少し静かになる。
宗玄の娘。
「ハナさん」
タツが言う。
「あなたのお父さんが殺されたんです」
ハナは何も言わない。
「明日、山へ行きます」
別の男。
「もうあれを放っておけない」
ハナはしばらく黙っていた。
そして、
「私は」
言葉を探す。
「まだ分かりません」
空気が変わる。
タツが驚く。
「何がです」
「父が殺されたのか」
「死んだじゃないですか」
「死にました」
「なら」
「父は」
ハナは一度目を伏せた。
「終わりたがっていた」
ざわめき。
知らなかった者もいる。
「だから殺されていいと?」
タツの声が強くなる。
ハナの表情が歪んだ。
「そんなこと言ってません!」
初めて声を荒げた。
周囲が黙る。
「私だって」
呼吸を整える。
「父に生きていてほしかった」
「でも」
涙が少し出る。
「父が何を思っていたのかも知っています」
誰も言葉を挟めない。
「だから」
ハナは山を見る。
「まだ、何があったのか知りたいんです」
シキは二階から、それを聞いていた。
タツが言う。
「知ってからでは遅いかもしれない」
その言葉にも理屈はあった。
宗玄一人で済む保証はない。
子供。
家族。
次の被害。
恐怖。
天導がユウを救った直後だからこそ、村人には対比が鮮明だった。
白い神は、生かした。
八脚の異形は、死を持ち込んだ。
それなら、どちらを守るべきか。
答えは簡単に見える。
シキは窓から離れる。
「明日、山行く」
イサナが答える。
「私も」
「来なくていい」
「村人が行くなら行きます」
「危ないよ」
「医者なので」
「それ便利すぎるだろ」
イサナは薬箱を持ち上げる。
「怪我人が出ないなら、それが一番です」
シキは、古い橋のことを思い出した。
腐った梁。
雨。
《立入注意》。
「……本当に出そうなんだよな」
翌朝。
村の集会所には三十人以上が集まっていた。
シキは部屋の端に座っている。
本当は呼ばれていない。
勝手に来た。
ナギは外。
還理衆を嫌う人間が多いため、入らなかった。
イサナは正面。
ハナもいる。
一番声が大きいのはタツだった。
七十八歳。
白伏では若い方だ。
「話してる間に誰か死んだらどうするんです」
「誰かが死ぬと決まったわけではない」
イサナ。
「宗玄さんは死んだ!」
「はい」
「不幻老に会った後に!」
「はい」
「まだ足りないんですか」
別の老人。
百二十七歳。
「お前の親父が山へ行っても、不幻老は何もしなかっただろう」
「何十年前の話だ!」
「だから言ってる。昔からいる」
「昔から何もなかったから安全?」
「そうとも言ってない」
別の女。
「追い出すだけならいいんじゃない?」
シキが口を挟む。
「どうやって?」
全員がこちらを見る。
「八本脚のあれを」
シキが続ける。
「誰か追い出し方知ってる?」
沈黙。
タツが言う。
「火を使う」
「山火事になる」
「囲んで――」
「何ができるか分かってない相手を?」
「なら何もしないんですか!」
シキは黙った。
そこへ、ハナが言う。
「私は」
全員が見る。
「父のために、不幻老を殺してほしいとは思っていません」
タツが立ち上がる。
「叔母さん」
「まだ、父が殺されたと決まっていないから」
「でも」
「父は」
言いづらそうにする。
「もう十分だと書いていました」
知っている者がざわつく。
「それとこれとは」
「分かっています」
ハナの声は弱い。
「分かっているんです」
シキはハナを見る。
父に死んでほしかったわけではない。
だが、父が終わりたかったことを知っている。
不幻老を憎めば、父の意思を無視することになる。
不幻老を許せば、自分が父の死を望んだようにも見える。
ハナはどちらにも行けない。
イサナが口を開く。
「私は不幻老を信用していません」
シキが少し驚く。
「ただ」
イサナは続ける。
「分からないものを殺すことにも賛成しません」
「先生は天導様に助けてもらった人を見ているでしょう!」
「だからです」
イサナの声が強くなる。
「救える命は救いたい」
「そして」
「誰かが死んだ理由も、できる限り間違えたくない」
タツが言う。
「もし次が子供だったら?」
その言葉で、空気が止まった。
昨日のユウを全員が思い出す。
「昨日、ユウが死にかけた」
「天導様が助けた」
「次に不幻老がユウへ何かしたら?」
「宗玄さんみたいになったら?」
シキが言う。
「不幻老は勝手に誰にでも同じことしてるとは限らない」
「限らない?」
タツがシキを見る。
「それをあなたが保証できますか」
シキは答えられない。
できない。
「保証できないなら」
タツは言った。
「私たちが村を守る」
理屈は通っている。
だから厄介だった。
「俺が今日もう一回話す」
「昨日も話したんでしょう」
「うん」
「何が分かった」
シキは少し考える。
「分からないことが増えた」
室内から呆れた声。
シキ自身もそう思う。
「でも」
続ける。
「宗玄を殺したって証拠も増えてない」
タツは首を振った。
「それまで待てない」
「何をする気」
「山へ行く」
「話す?」
返事がない。
それで分かった。
シキが立ち上がる。
「武器持ってくなら俺も行く」
「止めるため?」
「調べるため」
「邪魔したら」
タツが言う。
「巡界衆でも関係ありません」
シキは肩をすくめる。
「そういうの上司に言って」
「誰です」
「ゲン」
「知りません」
「俺もたまに知らないふりしたい」
誰も笑わなかった。
集会所の外。
ナギが壁にもたれていた。
「どうでした」
「今日行くって」
「止めます?」
「できれば」
「できなければ」
シキは少し考えた。
「……知らん」
ナギが少しだけ笑った。
シキが睨む。
「今笑った?」
「少し」
「不幻老の悪影響だ」
「あなたに?」
「知らん」
「真似してますね」
「便利なんだよ」
ナギは山を見る。
「シキ」
「何」
「村人の気持ち、間違ってると思います?」
シキはすぐ答えなかった。
「分かんない」
「そうですか」
「怖いのは普通だと思う」
「はい」
「自分の家族が次かもしれないと思ったら」
シキは集会所を見る。
「俺だって、追い出せって言うかもしれない」
「では」
「でも」
言葉を探す。
「怖いからって、何したか分からん奴を犯人にしていいかは別だろ」
ナギが頷く。
「そうですね」
「なんでそんな素直なの」
「正しいので」
「珍しい」
「あなた、私を何だと思ってるんですか」
「黒い短刀持って人に死ぬか聞いてる女」
ナギは自分の腰を見る。
「間違ってはいません」
山へ向かったのは十二人だった。
武器を持っている者もいる。
持っていない者もいる。
火は、シキとイサナが止めた。
「山焼く気か」
それだけは村人も納得した。
タツが先頭。
ハナは来なかった。
来られなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
ナギ。
イサナ。
シキ。
その後ろに村人。
古参道。
昨日までの雨。
そして問題の橋。
シキが止まる。
「ここから先、一度に乗るな」
タツが橋を見る。
「昨日も渡れたんだろ」
「俺は渡ってない」
「じゃあ大丈夫じゃないか」
「どういう理屈?」
橋の向こう。
木々が揺れる。
八本の脚。
不幻老。
村人の空気が一気に硬くなる。
タツが橋へ足をかける。
「待てって」
「不幻老!」
声が飛ぶ。
橋へ人が続く。
シキが人数を数える。
三。
五。
七。
「乗りすぎ!」
誰かが石を投げる。
不幻老の脚へ当たる。
鈍い音。
不幻老は避けなかった。
「宗玄さんを殺した!」
「まだ決まってない!」
シキが追いかける。
「いつ決まるんだ!」
「それ調べて――」
後方。
「シキー!」
嫌な声。
振り返る。
ユウ。
頭に包帯。
「お前!」
イサナも振り返る。
「ユウ!」
子供が橋へ近づく。
「見たかった!」
「昨日死にかけてたよな!?」
「もう元気!」
「そういう問題じゃない!」
タツも叫ぶ。
「来るな!」
全員が一瞬、別の方向を見る。
その時。
ぎしり。
前日見た亀裂。
腐った梁。
雨を吸った縄。
シキが足元を見る。
板が沈んだ。
「全員、降りろ!」
今度は誰も間に合わなかった。
梁が裂けた。
縄が切れる。
悲鳴。
板が傾く。
人が滑る。
ユウの足元が崩れる。
「ユウ!」
シキが走る。
腕を掴む。
反対側へ押し出す。
小さな身体が地面へ転がった。
次の瞬間。
シキの足場が消えた。
身体が落ちる。
木材。
岩。
枝。
腹へ強烈な衝撃。
息が全部抜けた。
世界が一瞬白くなる。
そして、暗くなった。
最初に戻ってきたのは痛みだった。
腹が熱い。
次に土の味。
口の中に砂。
シキは目を開ける。
暗い。
上の方に細い光。
身体を動かそうとする。
激痛。
「……っ」
腹に手を当てる。
濡れている。
血。
思ったより多い。
「最悪」
声がほとんど出ない。
上から人の声。
「ユウ!」
「こっちにもいる!」
「先生!」
白い光。
天導。
崩落現場の外。
村人たちを救っているらしい。
シキからは見えない。
梁。
石。
土。
完全に死角。
「天導!」
叫んだつもり。
声が弱い。
「天導!」
返事がない。
「シキ!」
イサナ。
少し近い。
「ここ!」
「喋らないで!」
「どっちだよ」
瓦礫の狭い隙間。
イサナが身体を滑り込ませる。
シキの腹を見る。
表情が変わる。
「……まずい」
「それ患者の前で言う?」
「黙って」
傷口を押さえる。
シキが息を止める。
「痛っ!」
「我慢して」
「無理」
「出血が多い」
「見れば分かる」
「腹腔内も」
「専門用語やめて」
「内臓も傷ついてるかもしれません」
「そっちは分かる」
イサナが外へ叫ぶ。
「天導様!」
声が届かない。
周囲で別の救助作業。
誰かが泣いている。
誰かが叫んでいる。
天導には、シキの場所そのものが見えていない。
「……呼べる?」
イサナが何も言わない。
「その顔やめて」
「何が」
「医者の顔」
「医者です」
「知ってる」
指先が冷えてくる。
寒い。
さっきまで腹が熱かったのに。
「俺」
少し息を吸う。
「死ぬ?」
イサナは答えない。
それが答えだった。
シキは目を閉じる。
宗玄が浮かぶ。
百四十六歳。
もう十分だ。
自分は。
全然違う。
「……やだ」
イサナが聞き返す。
「何?」
「死ぬの」
自分の声が震えている。
格好悪い。
でも、どうでもよかった。
「俺、まだ死にたくねえ」
家族。
ゲン。
トキ。
借りた本。
返してない金。
完成してない報告書。
昼飯。
木彫りの魚。
どうでもいいものばかり浮かぶ。
やり残したことなんて、探せばいくらでもある。
いや。
そんなことより。
ただ、怖い。
「天導」
もう一度呼ぶ。
届かない。
「頼むから」
声にならない。
瓦礫の向こう。
何かが動いた。
細い脚。
一本。
二本。
老人面。
「……お前」
不幻老。
「助けられんの」
返事がない。
「何とかして」
不幻老はシキを見る。
血。
呼吸。
イサナ。
外の光。
「俺、死にたくないって言ってんだけど」
一本の脚が動く。
二本。
三。
シキは、なぜか数えていた。
四。
五。
六。
七。
八。
いつもの数。
その後ろ。
何もなかった空間が、僅かに歪んだ。
不幻老自身が振り返った。
そこに、
一本。
あった。
九本目。
収納されていたわけではない。
隠れていたようにも見えない。
伸びたのでもない。
今。
さっきまで世界になかったものが、そこにある。
「……何、それ」

シキが掠れた声で聞く。
不幻老はその脚を見る。
初めて見るものを見る目。
「知らん」
「お前のだろ……」
九本目が、ゆっくりシキへ伸びた。
先端が肩へ触れる。
何も起きない。
傷は塞がらない。
血も止まらない。
痛い。
寒い。
「……何も変わってないじゃん」
次の瞬間。
遠くで小さく石が落ちた。
イサナが振り返る。
「何?」
崩落した土壁の隅。
細い穴。
土砂が抜ける。
向こうに暗い空間。
「これ……」
「何」
「古い排水路」
「通れる?」
「人は無理」
外から、微かに声。
「誰かいるのか!」
声が通った。
イサナが叫ぶ。
「います!」
「重傷者一名!」
返事。
道具が送られる。
細い棒。
止血具。
縄。
排水路を広げる音。
「これなら」
イサナが処置を始める。
「何」
「もう少し持つ」
「助かる?」
「まだ分からない」
「そこは嘘でも助かるって言って」
「助かります」
「今の嘘っぽい」
外。
梁が持ち上がる。
光。
人の手。
ナギの声。
「シキ!」
「生きてる!」
「残念ながら!」
誰かが笑った。
少しして、白い光が見えた。
完全円の一部。
天導。
「遅いよ」
言えたかは分からない。
白い手がこちらへ伸びる。
その瞬間、シキの意識は落ちた。
目を開けると、白い天井だった。
「……死んだ?」
「死んでいたら聞けません」
イサナの声。
「そりゃそうか」
身体を動かそうとして、腹に激痛。
「痛っ!」
「動かない」
「何日?」
「三日」
「ユウ」
「元気です」
「橋」
「しばらく立入禁止です」
「前から禁止みたいなもんだったろ」
「今度は正式に」
シキは息を吐く。
「俺は」
「かなり危なかったです」
「天導?」
「最終的には」
イサナは椅子へ座る。
「排水路が開いて声が通った」
「うん」
「そこから止血具を入れた」
「うん」
「別方向から瓦礫を除去できた」
「うん」
「外へ出した後、天導様に」
「戻してもらった」
「はい」
シキは天井を見る。
「じゃあ天導のおかげ」
「天導様だけではありません」
「誰」
「救助した村人」
「ナギ」
「私」
「天導様」
「あなた自身の運」
「運」
シキは少し笑う。
「変な運」
扉が開く。
白。
天導だった。
診療所の狭い部屋には存在が大きすぎる。
「お身体はいかがですか」
「痛い」
「申し訳ありません」
シキが眉を上げる。
「なんで謝るの」
「あなたをすぐに認識できませんでした」
「あっち助けてたんだろ」
「はい」
「ユウは」
「生きています」
「村の人は」
「救える方は」
「じゃあいいよ」
天導が少し黙る。
「怖かったですか」
シキは一瞬だけ格好つけようとした。
やめる。
「めちゃくちゃ」
天導の表情が、ほんの少し柔らかくなった。
目は閉じたまま。
それでも分かった。
「生きていてくださって、よかった」
シキは言葉を失った。
この神は、本当にそう思っている。
支配したい。
崇拝されたい。
正しさを証明したい。
そういうものが今の言葉には何もない。
ただ、生きていてよかった。
それだけ。
「ありがと」
シキが言う。
天導は静かに頭を下げた。
部屋を出る。
入れ替わるように、窓の外へ巨大な老人面が現れた。
「うわ」
「何じゃ」
「普通に来るなよ」
不幻老。
八本脚。
シキは数える。
八。
やっぱり八。
「九本目」
「ないな」
「何だったの」
不幻老は自分の脚を見た。
しばらく。
「知らん」
「お前も分かってない?」
「見れば分かるじゃろ」
「何が」
「今は八本じゃ」
「そうじゃなく」
ため息。
「なんで俺助けた?」
「知らん」
「はいはい」
シキは目を閉じる。
「もういい」
沈黙。
外の鳥の声。
少しして。
「いや」
不幻老が言った。
シキが目を開ける。
老人面の表情はいつもとほとんど変わらない。
それでも、声だけが僅かに違った。
「わしが」
一度止まる。
「お前を生かしたかった」
シキは何も言わない。
「それだけじゃ」
「なんで」
不幻老が少し考える。
今度の沈黙は長かった。
やがて。
「……知らん」
シキは笑った。
傷が痛む。
「そこは知らんのかよ」
不幻老は答えない。
「まあ」
シキは窓の外を見る。
「ありがと」
一本の脚が、窓枠を軽く叩いた。
それだけだった。
宗玄の葬儀は、さらに五日後になった。
問題は、村の誰もまともな葬式のやり方を知らなかったことだった。
古い記録。
周辺地域の風習。
寺への問い合わせ。
結局、できることをやるしかないという話になった。
棺を作ったのはエンジ。
七十四歳。
村の木工職人。
「若いね」
シキが言う。
「何が」
「この村基準だと」
「よく言われる」
エンジの家は昔、棺師だった。
死者がいなくなってから、
家具。
箱。
建具。
玩具。
何でも作るようになった。
工房の奥。
古い型板。
棺の設計図。
「残してたんだ」
「親父が」
「使うと思って?」
「さあな」
エンジが木を削る。
「じゃあなんで」
「捨てなかった」
「理由」
「ない」
シキが笑う。
「不幻老みたいなこと言うな」
「誰だそれ」
「山にいる面倒くさい爺さん」
「お前も十分面倒くさいぞ」
「初対面で言う?」
「五日いるだろ」
「そうだった」
棺は立派だった。
豪華ではない。
木目が綺麗だった。
宗玄の身体が納められる。
天導の祠の前を通る時、誰かが不安そうにした。
天導を信仰していた人間の葬列。
救いの神の前を、死者が通る。
天導は現れなかった。
呼ばれていないからだろう。
それだけかもしれない。
葬送の場所。
ハナが父の横に座る。
百十二歳の娘。
百四十六歳の父。
時間がおかしい。
でも、その姿は普通の親子に見えた。
ハナは宗玄の額へ触れる。
何か言おうとして、やめる。
少し笑う。
そして、
「おやすみ、お父さん」
棺の蓋が閉じられた。
誰かが泣く。
ハナも泣いた。
でも、止めてとは言わなかった。
シキは後ろから見ていた。
葬儀の帰り。
ナギが道端にいた。
「帰る?」
シキが聞く。
「もう少し」
「還理衆の仕事?」
「はい」
「例の爺さん」
「今日も聞きました」
「答えは」
「昨日と同じ」
「じゃあ」
「明日も聞きます」
シキは少し笑う。
「面倒だな」
「人の命なので」
「ナギ」
「何です」
「もし明日、やっぱ生きたいって言ったら」
「やめます」
「一ヶ月後また終わりたいって言ったら」
「また聞きます」
「その次の日に生きたくなったら」
「やめます」
「じゃあ永遠に決まらないかも」
「それでも」
ナギは言った。
「決まらないなら、それが今の答えでしょう」
シキは少し考えた。
「宗玄は?」
「私の手では何もしていません」
「やりたかった?」
「分かりません」
「そこは分からないんだ」
「宗玄さんが何を望むべきだったかは、私が決めることではありません」
「本人が決めればいい?」
「少なくとも」
ナギはシキを見る。
「あなたよりは」
「なんで俺」
「人の本心を勝手に決めそうなので」
「会って数日で?」
「十分です」
シキは反論しようとして、やめた。
少し心当たりがある。
帰還前夜。
シキは資料庫にこもった。
不幻老について残っている資料を全部見る。
古い墨絵。
八本。
木彫。
八本。
版画。
八本。
百年ほど前の簡易写真。
ぼやけている。
それでも八本。
一度として例外がない。
紙を出す。
報告書。
《対象:不幻老》
《分類:原天伝承存在》
《外見:巨大老人面状構造。八脚》
《人間側呼称「不幻老」を否定せず》
《死を司る存在であるとの伝承あり。ただし本人は否定》
《宗玄死亡事例との関連あり》
筆が止まる。
どう書く。
《宗玄の「死亡不能状態」を解除した可能性》
死亡不能状態。
イサナなら怒るだろう。
《生命終端が起こらない状態》
長い。
面倒。
横に《後でトキに直してもらう》と書きそうになって止める。
怒られる。
さらに。
《不幻老による作用後、対象は老衰により死亡》
《直接的殺害行為は確認されず》
そして、第九脚。
古い資料をもう一度見る。
八。
八。
八。
シキは書く。
《脚部八本》
その下。
《橋梁崩落時、一時的に九本目と思われる構造を確認》
《現時点で再確認できず》
筆を止める。
九本目。
何が起きた。
治ったわけではない。
天導が来たから助かった。
医療。
救助。
排水路。
全部、元からこの世界にあったものだ。
ただ、あの瞬間まで、自分には届かなかった。
《九本目については確認不能》
さらに。
《要継続観測》
少し考える。
その横へ、小さく、
《発生?》
と書いた。
見る。
線で消した。
分からない。
「何を書いておる」
窓の外から声。
シキが肩を跳ねさせる。
「うわ!」
不幻老。
「普通に来るなよ」
「普通とは何じゃ」
「そういう面倒な質問やめて」
「九本目か」
「自分から言うんだ」
「読めるからの」
「字読めるんだ」
「馬鹿にしておる?」
「ちょっと」
不幻老が窓から資料を見る。
自分の昔の絵。
「似てないね」
「そうか」
「気にしない?」
「何を」
「見た目」
「これもわしなのじゃろ」
「本人がそれ言う?」
少し沈黙。
シキは報告書を閉じる。
「宗玄の葬式終わった」
「そうか」
「見てた?」
「少し」
「どう思った」
「何を」
シキはもう聞かなかった。
「明日帰る」
「そうか」
「また来るかも」
「好きにせい」
「お前、他の場所行かないの」
「行くこともある」
「何しに」
「行く」
「理由」
「ないこともある」
シキは笑う。
「自由だな」
不幻老は何も答えない。
「九本目」
シキが言う。
「また出ると思う?」
不幻老は自分の八本の脚を見た。
しばらく。
「知らん」
シキは笑った。
「それはまあ、そうだろうな」
翌朝。
シキは白伏村を出た。
入口までハナが来た。
「ありがとうございました」
「俺、ほとんど何もしてないけど」
「父が誰かに殺されたわけではないかもしれないと分かりました」
「完全に証明できたわけじゃない」
「それでも」
ハナは山を見る。
「私は、父らしい最後だったと思います」
シキは返事をしなかった。
その言葉を肯定するのも、否定するのも違う気がした。
「じゃあ」
軽く手を上げる。
ハナも頭を下げる。
ユウが走ってくる。
頭にまだ包帯。
「シキ!」
「走るなって言われてなかった?」
「もういいって」
後ろからイサナ。
「言ってません!」
「ほら」
「シキいつ来る?」
「知らん」
「不幻老みたい」
「やめて」
ユウが笑う。
「次来たら怪物倒して」
「だから倒さない」
「弱い」
「お前、次会ったら覚えとけよ」
「子供に何する気ですか」
イサナが睨む。
「何もしないって」
村を出る。
山道。
鞄。
報告書。
木彫りの魚。
全部ある。
証明書も確認した。
地図を開く。
分岐。
右。
「こっちだな」
歩く。
二十歩ほど。
背後から声。
「そっちは違うぞ」
シキが止まる。
山の斜面。
不幻老。
「地図だとこっち」
「橋が落ちておる」
「……いつ」
「この前」
「知ってるよ。俺が落ちた橋だろ」
「そうじゃ」
「じゃあなんで地図に」
「古いからじゃろ」
「先に言って」
「聞かれなかった」
シキはため息をつく。
分岐まで戻る。
左。
「こっち?」
不幻老は答えない。
「おい」
老人面の口元が僅かに動いた。
絶対わざとだ。
「またな」
シキが言う。
返事はない。
不幻老が山へ戻る。
一本の脚だけが少し持ち上がった。
手を振ったのか。
障害物を跨いだだけなのか。
シキには分からなかった。
確認するために追いかけるほどのことでもない。
鞄の中。
報告書の最後には、二行だけが残っている。
《九本目については確認不能》
《要継続観測》
シキは地図を畳んだ。
今度は左の道を歩き始める。
白伏村が木々の向こうへ消えていく。
しばらく歩いたところで、腹が鳴った。
シキは止まった。
「飯」
朝から何も食べていない。
次の宿場まで、地図では半日。
「遠……」
誰も返事をしない。
また歩く。
しばらくして、鞄の中で何か硬いものが背中へ当たった。
止まる。
鞄を開ける。
木彫りの魚。
「お前ほんと何なんだよ」
魚は当然、答えない。
シキは鞄へ戻した。
そして今度こそ、
山を下った。
