CHAPTER 03
第三章 宵壺――残っている家
いなくなっても、残るものがある。
あらすじ
一人の女性が亡くなった。その後、誰も触れていないはずの彼女の持ち物が、夜になると少しずつ場所を変えるようになった。依頼を受けたシキは、家族が暮らすその家へ向かう。そこに残っているのは怪異なのか。それとも、人がいなくなったあとにも消えない何かなのか。
SCENE 01/14 残っている

その家では、
死んだ人間の物だけが、
毎晩一つずつ動いた。
最初は、茶碗だった。
台所の棚にしまったはずの茶碗が、翌朝には食卓の左端に置かれていた。
二日目。
櫛。
寝室の引き出しに入れていたものが、鏡台の前へ移っていた。
三日目。
靴。
玄関の奥にしまわれていた一足が、戸口に揃えられていた。
四日目。
手紙。
紐で束ね、箱へ入れていたものが、一通だけ食卓に置かれていた。
そして五日目。
主人は巡界衆を呼んだ。
シキがその家へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
町の外れ。
古い二階建て。
庭は広い。
柿の木。
井戸。
小さな物置。
低い石垣。
その向こうには、川へ続く細い道がある。
屋根の一部は新しく葺き直されていたが、それ以外は特に変わったところのない家だった。
少なくとも、
外から見る限りでは。
シキは依頼書をもう一度確認した。
《家屋内における物品移動》
《対象物はすべて半年前に死亡した住人の所有物》
《侵入痕跡なし》
《住人二名》
《原天由来の残留現象の可能性あり》
最後の一行だけ、トキの字だった。
《死者本人と断定しないこと》
「分かってるよ」
紙に向かって答える。
誰もいない。
シキは依頼書を畳んだ。
戸を叩く。
「巡界衆です」
しばらくして、
男が出てきた。
五十を少し過ぎたくらい。
痩せている。
白髪が混じっている。
疲れてはいるが、ひどく憔悴しているわけではない。
「シキです」
「ヨウです」
男は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「とりあえず、動いた物から見たい」
「こちらです」
玄関を開ける。
シキは、
そこで止まった。
女物の靴が一足、
綺麗に揃えて置かれている。
茶色。
古い。
踵が少し擦れている。
左の爪先には小さな傷。
「これ?」
「はい」
シキはしゃがんだ。
靴を見る。
触らない。
まず周囲。
床。
壁。
玄関戸。
土間。
異常なし。
次に靴底。
泥がついている。
「昨日、外に出した?」
「いいえ」
「誰か履いた?」
「いません」
「最後に使ったのは?」
ヨウは答えるまでに少し間を置いた。
「妻が亡くなる三日前です」
シキは顔を上げる。
「半年前?」
「はい」
「それから一回も?」
「ありません」
シキは指先で泥に触れた。
湿っている。
「……乾いてない」
「え?」
ヨウもしゃがむ。
「昨日、雨降った?」
「夜に少し」
「この辺の土?」
「分かりません」
シキは報告用紙を取り出した。
《対象:女性用革靴》
《最終使用:約半年前》
《靴底に湿潤した泥を確認》
《前夜降雨あり》
書く。
「奥さんの名前」
「ミナです」
「死因は?」
「病気」
「急に?」
「いいえ。二年ほど」
「最後は家?」
「最後の三か月は」
ヨウは廊下の奥を見る。
閉じた襖。
「あの部屋で」
シキも見る。
「家には今、あなただけ?」
「娘がいます」
「何歳?」
「二十四です」
二階から足音がした。
若い女が降りてくる。
長い髪。
細身。
寝不足なのか、目の下に薄い隈がある。
シキを見る。
「巡界衆?」
「シキ」
「若いね」
「よく言われる」
「大丈夫?」
「何が」
「こういうの」
シキは少し考えた。
「たぶん」
「たぶんなんだ」
最近よく言われる。
女――ユラは、玄関の靴を見る。
表情が変わった。
「また動いた?」
ヨウが頷く。
「ああ」
ユラはしゃがむ。
靴底の泥を見る。
そして、
小さく言った。
「お母さん、外に出たのかな」
「ユラ」
ヨウの声が低くなる。
「何」
「そういう言い方はやめろ」
「なんで」
「死んだ」
「分かってる」
「なら」
「分かってるって言ってるでしょ」
声が強くなる。
シキは二人を見る。
間には入らない。
まだ何も知らない。
ユラが立ち上がった。
「でも、お母さんの物しか動かないんだよ」
ヨウは答えない。
「お父さんの物は?」
答えない。
「私の物は?」
答えない。
「一個も動いてない」
ユラはシキを見る。
「全部、お母さんのなんです」
「うん」
「だったら」
一度、言葉を止める。
「まだ何か残ってるって思うでしょ」
シキは靴を見る。
湿った泥。
確かに、
何かは残っている。
でも、
それが何なのかは、
まだ分からなかった。
SCENE 02/14 ミナの家

シキは家中を見た。
まず台所。
最初に動いた茶碗。
白地に青い線。
欠けてはいない。
高価でもない。
「これ、奥さん専用?」
「はい」
「いつもここ?」
シキが食卓の左端を指す。
「妻はそこに座っていました」
「じゃあ、いつもの位置に戻った?」
「そうです」
「誰か置いた可能性は?」
「ありません」
「夜中起きた?」
「一度、水を飲みに」
「何時?」
「分かりません」
「茶碗は?」
「その時は見ていません」
「じゃあ絶対ないとは言えない」
ヨウが少し不満そうな顔をした。
シキは気にしない。
「娘さんは?」
「寝ています」
「夢遊病とか」
「ありません」
「今まで一度も?」
「聞いたことは」
「本人にも聞く」
次。
櫛。
木製。
歯が一本欠けている。
「奥さん、毎日使ってた?」
「はい」
「誰か今使ってる?」
「いいえ」
「動いた時、髪の毛とか?」
「ありました」
シキが止まる。
「残ってる?」
ヨウが櫛を渡す。
一本。
長い黒髪。
「奥さんの?」
「おそらく」
「娘さんも長いけど」
「妻の方が少し茶色かった」
シキは光へ透かす。
確かに、
真っ黒ではない。
でも、それだけで誰の髪かは分からない。
袋へ入れる。
「調べても本人だって証明できるとは限らないから」
「はい」
「期待しないで」
ヨウは、
「期待はしていません」
と答えた。
その言い方が、
シキには少し気になった。
次。
手紙。
「読んでいい?」
ヨウは迷った。
「必要ですか」
「分からない。嫌ならいい」
「……読んでください」
宛名はヨウ。
差出人はミナ。
十五年前。
内容は短い。
買い物へ出た夫に、
帰りに塩を買ってきてほしいと頼んでいる。
それだけだった。
シキは二回読んだ。
「これ?」
「はい」
「何か重要な手紙?」
「いいえ」
「思い出とか」
「特には」
「なんで取ってたの?」
「妻が何でも取っておく人だったので」
「塩買ってきて、を十五年?」
「はい」
シキは少し笑った。
「変な人」
ヨウも少しだけ笑う。
「そうですね」
そこへユラが来た。
「お母さん、紐とかも取っとくよ」
「紐?」
「綺麗な箱についてたやつとか」
「何に使うの」
「いつか使うって」
「使った?」
「たまに」
「使わなかったのは?」
「いっぱい」
「捨てればいいのに」
ユラがシキを見る。
「お母さんにもずっと言ってた」
「本人は?」
「まだ使えるって」
シキは手紙を見る。
十五年前の、
塩を頼む紙。
「これもまだ使える?」
ユラは初めて少し笑った。
「知らない」
最後に、
ミナが死んだ部屋。
襖を開ける。
薬草の匂いが、
まだ僅かに残っている。
布団はない。
鏡台。
箪笥。
小さな机。
壁際には箱が積まれている。
「片付けてない?」
「少しずつ」
ヨウが答える。
「妻が亡くなった直後は、ほとんど触れませんでした」
「今は?」
「必要なものだけ残して、処分しています」
ユラが言う。
「お父さんは何でも捨てようとする」
「何でもではない」
「服、半分捨てた」
「半年だぞ」
「半年しか、でしょ」
また始まった。
シキは部屋を見るふりをする。
箪笥。
開ける。
服。
箱。
紐。
小瓶。
ボタン。
壊れた髪飾り。
紙袋。
使いかけの蝋燭。
乾いた花。
確かに、
物が多い。
「これ全部ミナの?」
「ほとんど」
「生きてた時から?」
「はい」
シキは乾いた花を持ち上げる。
「これ何」
ユラが見る。
「知らない」
ヨウも。
「じゃあ捨てても」
「置いといて」
ユラがすぐ言う。
「なんで」
「分かんないから」
「分かんないなら要らないじゃん」
「逆」
ユラが言った。
「分かんないから、まだ捨てたくない」
シキは花を見る。
それから、
元の場所へ戻した。
SCENE 03/14 痛くなくなった人

夕方。
ユラが買い物へ出た。
家にはヨウとシキだけになった。
シキは食卓で記録を整理していた。
ヨウが茶を置く。
「どうですか」
「まだ分からん」
「そうですか」
「幽霊だと思う?」
ヨウは少し考える。
「思いません」
即答ではなかった。
でも、
迷いも少なかった。
「娘は思ってる」
「思いたいんでしょう」
「ヨウは?」
「私は」
男は湯呑みを見る。
「妻が死んだことを知っています」
「それだけ?」
「それだけで十分です」
シキはヨウを見る。
「冷静だな」
「そう見えますか」
「うん」
ヨウは、
少しだけ笑った。
「無悼を受けましたから」
シキの筆が止まる。
「第三天律?」
「はい」
「いつ」
「妻が死んで二か月後です」
「自分から?」
「はい」
シキは紙を新しくする。
「聞いていい?」
「どうぞ」
「なんで受けた?」
ヨウはしばらく黙った。
「生きられなかったからです」
「……生きてるじゃん」
「そういう意味ではありません」
朝、
目が覚める。
隣に妻がいない。
それだけで動けなくなる。
飯が食えない。
仕事へ行けない。
外へ出ても、
妻が好きだった物を見る。
帰っても、
妻がいない。
夜になる。
眠れない。
眠れば夢に出る。
起きれば、
いない。
「三十年、一緒でした」
ヨウは言った。
「三十年?」
「結婚前からなら、もう少し」
「長いな」
「長かったです」
「それが急になくなった」
「はい」
ヨウは静かだった。
「娘が飯を作ってくれました」
「うん」
「食べられませんでした」
「仕事を休んで、ずっとそばにいてくれました」
「うん」
「それでも私は、妻がいないことしか考えられなかった」
ヨウは湯呑みに触れる。
「そのうち、娘を見ることすら苦しくなった」
「なんで」
「妻に似ているからです」
シキは何も言わない。
「それで無悼?」
「はい」
「どうなった?」
「楽になりました」
迷いのない答えだった。
「本当に?」
「はい」
「ミナのこと忘れた?」
「いいえ」
「顔」
「覚えています」
「声」
「覚えています」
「好きだった食べ物」
「甘いもの」
「嫌いだったもの」
「魚の皮」
「なんで」
「気持ち悪いと」
シキは少し笑った。
「愛してた?」
「はい」
「今は?」
ヨウは、
少しだけ不思議そうな顔をした。
「今も愛しています」
「会いたい?」
「会えるなら」
「寂しい?」
「寂しいです」
「悲しい?」
「悲しいですよ」
シキは眉を寄せた。
「じゃあ何がなくなったの」
ヨウは考える。
長く。
「……悲しいことに、潰されなくなりました」
「潰される?」
「はい」
「今も悲しい。でも飯は食える?」
「食べられます」
「仕事も」
「行けます」
「ミナの服見ても」
「見られます」
「捨てられる?」
そこで、
ヨウは少し笑った。
「全部ではありません」
「何だ」
「無悼を受けたら全部捨てられると思いましたか」
「ちょっと」
「違います」
シキは紙へ書く。
《記憶保持》
《愛着保持》
《寂寥感あり》
《悲哀感あり》
《日常生活を阻害する悲嘆反応の軽減》
最後に、
《本人は救済を肯定》
と書いた。
「疑っているんですか」
「何を」
「無悼を」
シキは首を振る。
「別に」
本当に、
別に疑っていなかった。
ヨウは救われている。
妻を忘れていない。
愛情も消えていない。
それでも飯を食べられる。
仕事へ行ける。
娘を見ることができる。
それの何が悪いのか、
シキには分からなかった。
「ユラは?」
「受けていません」
「勧めた?」
ヨウは黙った。
シキは紙から顔を上げる。
「勧めたんだ」
「最初は」
「喧嘩した?」
「かなり」
「何て言ったの」
ヨウは言いにくそうだった。
「楽になる、と」
「それだけ?」
「妻も、娘が苦しみ続けることを望まないだろう、と」
シキは、
「ああ」
と言った。
「何ですか」
「それは怒るかも」
「なぜ」
「死んだ人の気持ち勝手に使ったから」
ヨウは黙った。
「悪気はなかった」
「分かっています」
「でも」
「分かっています」
ヨウは少し俯く。
「後で謝りました」
「ユラは?」
「まだ怒っています」
「そりゃそうか」
「あなたは、どちらが正しいと思いますか」
シキはすぐ答えた。
「知らん」
ヨウが顔を上げる。
「決めに来たわけじゃないし」
シキは報告書を指で叩く。
「俺が調べるのは、物がなんで動くか」
「そうですか」
「無悼受けるかどうかは、ユラが決めればいいんじゃない」
言ってから、
少しだけ引っかかった。
簡単に言いすぎた気がした。
でも、
何が引っかかったのかは分からなかった。
SCENE 04/14 死者の席

その夜。
三人で食卓を囲んだ。
煮物。
飯。
汁物。
漬物。
シキは食べながら、
一つだけ空いている席を見る。
食器は置かれていない。
でも、
椅子だけが少し引かれている。
「そこ」
ヨウが箸を止める。
「妻の席でした」
「今も空けてる?」
「なんとなく」
「無悼受けても?」
言った瞬間、
ヨウがシキを見る。
「あ」
シキは気づく。
「ごめん」
「いえ」
ヨウは笑った。
「無悼は、妻がいたことまで消しません」
「そうだった」
ユラが言う。
「お父さん、何でも捨てようとするけどね」
「またその話か」
「お母さんの服、半分捨てた」
「全部置いてどうする」
「置いとけばいいじゃん」
「いつまで」
ユラが止まる。
「……分かんない」
「一年?」
「分かんない」
「十年?」
「分かんないって」
「では、いつ決める」
「今決めなくていいでしょ!」
声が響いた。
ヨウも黙る。
シキは飯を食べる。
非常に居づらい。
「シキは?」
ユラが突然こちらを向いた。
「何」
「死んだ人の物、捨てられる?」
「物による」
「例えば」
「知らん」
「何それ」
「死んだ人の物あんまり持ってないし」
「自分の物は?」
「捨てる」
「本当に?」
「……たぶん」
「鞄すごいけど」
シキは鞄を見る。
「仕事道具」
「全部?」
「全部」
「それ何」
ユラが鞄から少し顔を出している木の尾を指した。
シキが押し込む。
「魚」
「魚?」
「木彫り」
「何に使うの」
「使わない」
「なんで持ってるの」
「……買ったから」
「要る?」
「いらない」
「捨てれば?」
「まだいい」
「なんで」
「知らん」
ユラが、
初めて普通に笑った。
「変なの」
「うるさい」
ヨウも少し笑った。
その時だった。
二階で、
音がした。
こと。
小さな音。
三人とも止まる。
次。
ずる。
何かを引きずる音。
ユラが立つ。
ヨウも。
「待て」
シキが先に階段へ向かう。
「俺が行く」
二階。
廊下。
ミナの部屋。
襖が、
少しだけ開いている。
シキは触れずに覗く。
誰もいない。
窓は閉まっている。
床。
異常なし。
「入る」
襖を開ける。
ユラがすぐ鏡台を見る。
息を呑んだ。
「これ」
櫛。
昨日とは別の櫛。
鏡台の前へ置かれている。
「箱の中だった?」
「うん」
シキは鏡台へ近づく。
櫛。
髪の毛はない。
引き出し。
閉じている。
箱。
蓋が少しずれている。
「ここから?」
「そう」
シキが箱を開ける。
中には髪飾りや櫛がいくつか。
一つ分、
空いている。
「誰か開けた?」
二人とも否定。
シキは周囲を見る。
そして、
匂いに気づいた。
薬草。
古い布。
それとは別に、
僅かな香り。
「何か匂う」
ユラが鼻を動かす。
顔が変わる。
「お母さん」
ヨウも気づいた。
「香油?」
ユラが頷く。
「ずっと使ってた」
シキは鏡台を見る。
小瓶。
蓋を開ける。
同じ匂い。
「これが漏れた?」
「閉まってた」
「いつからここに」
「ずっと」
シキは瓶を確認する。
口は乾いている。
液漏れなし。
その時。
ヨウが、
鏡台の前から一歩下がった。
シキが見る。
男の顔が、
崩れていた。
泣いてはいない。
苦しんでもいない。
でも、
妻の匂いを嗅いだ男の顔だった。
ほんの一瞬。
すぐ戻る。
シキは何も言わなかった。
無悼を受けても、
残っている。
何が、
とはまだ言えなかった。
SCENE 05/14 嫌なところ

翌朝。
シキは町へ出た。
ミナについて聞き込みをする。
死んだ人間について聞くと、
人はだいたい良いことを言う。
優しかった。
働き者だった。
家族思いだった。
料理が上手だった。
だから、
五人目でシキは質問を変えた。
「嫌なところは?」
隣家の老婆が、
ぽかんとする。
「死んだ人の?」
「うん」
「巡界衆ってそんなこと聞くのかい」
「俺は聞く」
老婆は笑った。
「いっぱいあったよ」
シキは筆を構える。
「例えば」
「人の話聞かない」
「他は」
「頑固」
「他」
「物を捨てない」
シキの筆が止まる。
「どれくらい?」
「何でも」
「本当に何でも?」
「瓶の蓋」
「いらない」
「紐」
「いらない」
「破れた袋」
「いらない」
「欠けた皿」
「危ない」
老婆が笑う。
「私もそう言ったよ」
「ミナは?」
「まだ使えるって」
「使った?」
「使う時もあった」
「使わなかったのは」
「そのまま」
「なんで取ってた?」
「いつか使うかもしれないから」
シキは、
少しだけ木彫りの魚を思い出した。
考えないことにする。
「毎朝散歩してた?」
「してたね」
「どこ」
「家の裏から川まで」
「雨の日も?」
「小雨なら」
「靴は?」
老婆が考える。
「茶色いやつ」
シキは顔を上げる。
「いつも?」
「だいたい」
「他に毎日してたこと」
「髪を梳かしてた」
「どこで」
「そりゃ家だろ」
「食事の席は」
「知らないよ」
「手紙は?」
「もっと知らない」
「塩頼んだことは?」
老婆は、
「何の話だい」
と言った。
シキは、
「何でもない」
と答えた。
裏道。
川まで歩く。
前夜の雨。
土はまだ湿っている。
シキは地面を採取する。
家へ戻る。
玄関の靴底の泥と並べる。
色。
粒。
細かな白い石。
よく似ている。
専門的な分析をしなければ断定はできない。
でも、
少なくとも、
家の裏道の泥として不自然ではない。
「誰かが履いた」
シキは言った。
ユラが首を振る。
「履いてない」
「じゃあ靴だけ歩いた」
「……お母さんが」
「それはまだ分からない」
「でも」
「夜見る」
「何を」
「靴」
SCENE 06/14 歩いたもの
その夜。
シキはミナの部屋で待った。
蝋燭一本。
紙。
水。
干し肉。
短刀。
そして、
鞄。
夜半。
何も起きない。
シキは欠伸をした。
さらに待つ。
「……眠い」
干し肉を齧る。
硬い。
鞄の中を探る。
何かが落ちる。
こと。
木彫りの魚。
「なんでお前出てくんの」
拾う。
机へ置く。
「見張っとけ」
魚は答えない。
一刻。
二刻。
外で音。
ざ。
ざ。
ざ。
土を掻く音。
シキは立った。
窓へ。
庭。
暗い。
何かがいる。
蝋燭を消す。
短刀を持つ。
廊下。
階段。
玄関。
外へ。
柿の木の下。
何かが、
土を掘っていた。
小さい。
いや、
小さく見えた。
最初、
蛸だと思った。
違う。
壺だった。
壺のような胴から、
何本もの腕が伸びている。
腕は蛸に似ている。
だが、
肉ではない。
石。
土。
焼き物。
古い木。
どれにも見える。
表面は乾き、
ところどころ苔がついている。
胴の上には、
地蔵を思わせる頭部。
けれど、
人間の顔ではない。
目らしい窪み。
口らしい線。
祈っているようにも、
眠っているようにも見える。
胴には、古びた木札が一枚張り付いている。
墨で、ただ「空」と書かれていた。
一本の腕が土から何かを引き出した。
布切れ。
泥だらけ。
別の腕。
錆びた針。
別。
欠けたボタン。
乾いた種。
小さな骨。
「……何してんの」
頭がこちらを向く。
返事はない。
「お前、原天?」
返事なし。
シキは距離を取ったまま続ける。
「宵壺?」
腕が止まった。
当たりらしい。

第三ノ御霊。
宵壺。
古い記録には、
死者の忘れ物を拾うもの。
失われた記憶を集めるもの。
捨てられた物を守るもの。
夜に死者の声を壺へ収めるもの。
地方ごとに、
好き勝手書かれている。
シキは聞いた。
「ミナの物を動かしてる?」
宵壺は、
布切れを持ち上げた。
「それ何」
「残った」
声。
低い。
乾いている。
「何が?」
「これが」
「誰の?」
「知らん」
シキは眉を寄せた。
「なんで集めてる?」
宵壺は、
布切れを見る。
「置いてあったから。」
「誰が?」
「知らん」
「ミナ?」
「知らん」
「死んだ人の魂とか?」
沈黙。
「魂って分かる?」
「知らん」
「だよな」
シキは少し安心した。
何に安心したのかは分からない。
宵壺の周囲を見る。
大量の小さな物。
釘。
糸。
器の欠片。
髪。
石。
紙。
種。
骨。
誰のものか分からない。
意味があるのかも分からない。
「ミナの物だけ動いてる」
宵壺の腕が、
家を指す。
「残っておる」
「何が」
「歩いた」
「ミナが?」
「歩いた」
「ミナが残ってる?」
「違う」
シキが止まる。
「じゃあ何」
「歩いた」
「歩いたこと?」
返事なし。
「記憶?」
返事なし。
「お前、説明下手だな」
返事なし。
一本の腕が、
玄関へ伸びた。
長い。
地面を這う。
戸の隙間へ。
「おい」
シキが追う。
玄関。
靴。
宵壺の腕が、
茶色い靴へ触れる。
次の瞬間。
靴が動いた。
シキが止まる。
誰も履いていない。
右。
一歩。
左。
一歩。
玄関を出る。
「……うわ」
怖い。
普通に怖い。
シキは短刀を握り直す。
靴は裏道へ。
一歩。
一歩。
昨夜の雨で湿った土。
泥がつく。
「これか」
追う。
宵壺も這ってくる。
靴は、
川へ向かう。
ミナが毎朝歩いていた道。
「再現してる?」
「違う」
「過去を戻してる?」
「違う」
「ミナ本人?」
「違う」
「じゃあ何なんだよ!」
宵壺は、
歩く靴を見る。
「残っておる。」
「何が!」
宵壺は答えない。
靴は川まで行った。
そこで止まった。
ミナが毎朝、
何をしていたのか。
川を見ていたのか。
水を汲んだのか。
誰かと話したのか。
シキは知らない。
靴も何もしない。
ただ、
止まる。
しばらくして、
来た道を戻り始めた。
「毎朝これ?」
宵壺は答えない。
「ずっと残ってるの?」
答えない。
「いつまで?」
答えない。
シキは、
暗い道を歩く二足の靴を見ていた。
そこに人間はいない。
でも、
人間がいた痕跡だけが、
歩いていた。
SCENE 07/14 母親ではない

翌朝。
シキは二人へ見たものを説明した。
ユラの顔が変わる。
「やっぱりお母さん」
「違う」
シキは即答した。
「なんで!」
「宵壺が違うって言った」
「宵壺が何を知ってるの」
「……それは俺も思うけど」
「じゃあ分かんないじゃん!」
「分からん」
「だったらお母さんかもしれない!」
「それも分からん」
「なんで否定するの!」
シキも少し声が強くなる。
「生き返ったって証拠がないからだよ」
「生き返ったなんて言ってない!」
「じゃあ何」
ユラが止まる。
「魂?」
「……」
「幽霊?」
「……」
「記憶?」
「……」
「何が残ってると思ってるの」
「分かんない!」
涙が落ちた。
シキは口を閉じる。
ユラは泣きながら言う。
「分かんないから、残っててほしいんだよ」
シキは黙る。
「声じゃなくていい」
「……」
「魂じゃなくてもいい」
「……」
「お母さんじゃなくても」
そこで、
ユラ自身が止まった。
言葉が崩れる。
「……何かくらい」
声が小さくなる。
「何かくらい、残っててもいいでしょ」
シキは、
すぐには答えなかった。
ヨウも何も言わない。
「残ってるよ」
シキが言った。
ユラが顔を上げる。
「少なくとも、何かは」
「何」
「それを調べてる」
「いつ分かる?」
「分からん」
「巡界衆でしょ」
「だから調べるんだよ」
言ってから、
どこかで聞いたと思った。
――分からんから調べるってことだ。
六辻街道で会った医者。
セン。
シキは少しだけ口元を緩める。
ユラが睨む。
「何笑ってんの」
「違う」
「笑った」
「思い出しただけ」
「何を」
「別の分からんやつ」
「何それ」
「何でもない」
ユラはまだ怒っていた。
でも、
少しだけ泣き止んだ。
SCENE 08/14 残余

調査はさらに二日続いた。
シキは、
動いた物と、
ミナの生前の生活を照合した。
茶碗。
確かにいつもの席。
だが、
ミナが最後に食事をした位置ではない。
櫛。
日常的に使っていた。
だが、
死ぬ直前にはもう自分で髪を梳かせなかった。
靴。
毎朝歩いていた道。
だが、
最後に履いた日の行き先とは違う。
手紙。
十五年前。
重要な手紙ではない。
塩を頼んだだけ。
「死ぬ直前じゃない」
シキは紙を並べた。
「何が?」
ユラが聞く。
「全部」
「どういうこと」
「死んだ日の再現じゃない」
ヨウも見る。
「最後の記憶でもない」
茶碗。
櫛。
靴。
手紙。
「バラバラなんだ」
シキは言う。
「時期が」
十五年前。
数年前。
半年前。
毎日。
何度も。
「じゃあ何なの」
「たぶん」
シキは、
言いかけて止めた。
「いや」
「何」
「まだやめとく」
「なんで」
「決めると間違えそう」
シキは再び町へ出た。
ミナがよく行った店。
川。
近所。
仕立屋。
市場。
薬屋。
そこで、
妙な共通点が見えた。
ミナは、
同じことを何度もする人だった。
毎朝、
川まで歩く。
同じ店で塩を買う。
同じ位置に茶碗を置く。
髪を梳く。
庭の柿を見る。
洗濯物を同じ場所へ干す。
使える紐を取っておく。
瓶を洗う。
破れた袋を畳む。
特別な行動ではない。
だからこそ、
何百回、
何千回と繰り返されていた。
そして、
それらの痕跡が、
家や物や場所に残っている。
シキは、
宵壺をもう一度探した。
夕方。
川辺。
壺のような姿が、
石の横にいた。
「なあ」
「……」
「お前が作ってる?」
「何を」
「残ってるやつ」
「作っておらん」
「強くしてる?」
「知らん」
「集めてる?」
「置いてある」
「お前がいなくても残る?」
宵壺は川を見る。
「残るものは」
「消えるものは?」
「消える」
「お前は何する?」
「触る」
「触るとどうなる?」
「動くこともある」
シキは止まった。
初めて、
少しまともな答えだった。
「なんで?」
「触ったから」
「……」
シキは頭を抱えた。
「もういい」
宵壺は気にしない。
シキは紙へ書いた。
《宵壺が死者本人を保存している可能性――低》
少し考える。
消す。
《死者本人の残存を示す証拠なし》
次。
《時間遡行なし》
《死者蘇生なし》
《記憶再生との断定不可》
《対象人物に関連する物質・配置・反復行動等の痕跡が顕在化している可能性》
最後に、
大きく、
《推定》
と書いた。
「残余」
シキは呟いた。
宵壺がこちらを見る。
「何」
「お前のこと」
「知らん」
「俺らが勝手に呼んでるだけだから」
「そうか」
「嫌?」
「知らん」
「そう」
それでいい気がした。
SCENE 09/14 白い百合

無悼が現れたのは、
その夜だった。
呼んだのは、
ユラだった。
庭。
最初に、
白い百合が一輪咲いた。
季節ではない。
土から生えたのでもない。
空中に、
白い花が開いた。
一つ。
二つ。
十。
百。
花弁の間から、
淡い光が落ちる。
その中心に、
人の形が現れる。
白。
あまりにも白い。
傷一つない肌。
長い衣。
人間に似ている。
美しい。
けれど、
人間の美しさを少し超えすぎている。
両腕は、
誰かを抱きしめるように開かれていた。
その腕の中には、
何もない。
背後には、
縦に長い光輪。
墓標。
扉。
あるいは、
永遠に閉じない葬列の入口。
シキは、
しばらく見ていた。
原天とは違う。
不幻老。
万来樹。
宵壺。
どれも、
美しいとは言いにくかった。
それに比べて、
天律は美しい。
人間が、
救ってほしいと思える姿をしている。
無悼の前に、
ユラが立っていた。
「お願いします」
ヨウが庭へ出てくる。
「ユラ」
娘は振り返らない。
「何をするつもりだ」
「お父さんと同じ」
ヨウの顔が変わる。
「待て」
「なんで」
「今決める必要はない」
「お父さんは決めたじゃん!」
ヨウが止まる。
無悼は、
何も言わない。
急かさない。
勧めない。
ただ、
待っている。
「もう嫌なの」
ユラが言う。
「何が」
「全部」
涙が落ちる。
「お母さんの物が動くたびに、お母さんかもしれないって思う」
「ユラ」
「違うって言われたら苦しい」
「……」
「残ってるって言われても苦しい」
「……」
「捨てても苦しい」
「……」
「置いてても苦しい」
声が震える。
「もう何が正しいのか分かんない」
無悼が、
初めて口を開いた。
「正しくする必要はありません。」
ユラが顔を上げる。
優しい声。
「忘れる必要もありません。」
「お母さんのこと?」
「はい。」
「顔も?」
「あなたの記憶に残ります。」
「声も?」
「残ります。」
「好きだったことも?」
「残ります。」
「私がお母さんを好きだったことも?」
「失われません。」
ユラは泣いている。
無悼の両腕は、
開いたまま。
「愛したことを、苦しみ続ける理由にする必要はありません。」
ユラが一歩、
近づく。
シキは動かなかった。
止める理由がない。
ユラは苦しんでいる。
本人が望んでいる。
記憶は消えない。
愛も消えない。
母親を忘れるわけでもない。
無悼は、
苦痛化した悲嘆だけを取り除く。
なら、
何が悪い。
ヨウが言った。
「待ってくれ」
ユラが振り返る。
「なんで」
ヨウは、
答えられない。
自分が受けた救済だ。
それによって、
生きられるようになった。
「お父さんは楽になったんでしょ」
「なった」
「お母さんを忘れてないんでしょ」
「忘れていない」
「今も好きなんでしょ」
「愛している」
「じゃあなんで私には待てって言うの」
ヨウは、
長く黙った。
そして言った。
「怖いからだ」
ユラが止まる。
「何が」
「私が」
「……」
「お前に、私と同じものが必要だと決めてしまうことが」
「でも今止めてる」
「そうだな」
ヨウは、
苦しそうに笑った。
「だから、それも違う」
ユラは泣いたまま、
父親を見る。
「じゃあどうしたらいいの」
ヨウは答えた。
「分からない。」
初めてだった。
ユラの顔が少し変わる。
無悼は、
待っている。
シキも、
何も言わない。
やがてユラは、
無悼を見る。
「一つ聞いていい?」
「はい。」
「今日じゃなくてもいい?」
「はい。」
「明日でも?」
「はい。」
「一か月後でも?」
「はい。」
「やっぱり受けないって言っても?」
「はい。」
「途中でやめても?」
「救済が完了する前であれば。」
ユラは少し考える。
そして、
もう一つ聞いた。
「受けた後」
無悼を見る。
「やっぱり戻してって言ったら?」
無悼は、
初めてすぐに答えなかった。
シキが顔を上げる。
ヨウも。
白い百合が、
風もないのに揺れる。
「取り除いた苦痛そのものを、同じ形で返すことはできません。」
ユラの顔から、
少しだけ表情が消える。
「戻せない?」
「あなたの記憶は残ります。」
「うん」
「愛も残ります。」
「うん」
「悲しみも、寂しさも、失ったという事実も残ります。」
「じゃあ何が戻らないの」
「あなたを現在のように傷つけ続けている悲嘆です。」
「それを」
ユラは言う。
「返してって言っても?」
「同じものを再び与えることはできません。」
沈黙。
シキは、
そこでようやく、
昼間自分が感じた引っかかりが少し分かった。
無悼が悪いわけではない。
救われることが悪いわけでもない。
ヨウを見れば分かる。
でも、
受ける前と、
受けた後。
同じ場所へ、
まったく同じようには戻れない。
ユラは、
無悼の開いた腕を見る。
あと数歩。
それだけで届く。
長い時間、
誰も動かなかった。
やがて。
ユラは一歩、
後ろへ下がった。
「今日はやめる」
無悼は微笑んだ。
「はい。」
怒らない。
説得しない。
残念がらない。
「また呼んでもいい?」
「あなたが救いを望むなら。」
「その時も、聞いてくれる?」
「はい。」
ユラは頷いた。
白い百合が、
一輪ずつ閉じる。
無悼の姿が、
光の中へ薄れていく。
最後まで、
両腕は開かれていた。
シキは、
消えていく無悼を見ながら思った。
良い神だ。
少なくとも、
今の自分にはそう見えた。
だから、
余計に難しかった。
SCENE 10/14 翌朝

朝。
ヨウが庭へ妻の服を運んでいた。
ユラもいる。
シキは縁側で朝飯を食べながら見る。
「何してるの」
「整理です」
「捨てる?」
「仕立屋へ」
使える布は再利用する。
残す服もある。
ユラが一枚ずつ選ぶ。
青い服。
茶色い上着。
白い寝巻き。
ヨウが寝巻きを見る。
「それは捨ててもいいんじゃないか」
「なんで」
「ぼろぼろだ」
「お母さん好きだった」
「寝る時だけだろ」
「だから」
「もっと良い服を残せば」
「これがいい」
ヨウは、
少しだけ黙る。
「じゃあそれでいい」
それで終わった。
シキは飯を食べる。
昨日なら喧嘩になっていた。
ユラがシキを見る。
「何笑ってるの」
「笑ってない」
「笑ってた」
「飯うまいなって」
「嘘」
「本当」
「じゃあシキも何か捨てれば」
「なんで俺」
「鞄」
「仕事道具」
「魚」
シキが止まる。
「お前まだ覚えてたの」
「必要?」
「……いらない」
「捨てれば」
シキは鞄から木彫りの魚を出す。
見る。
安物。
特別な由来もない。
役にも立たない。
「……」
ユラが待つ。
「まだいい」
「なんで」
「知らん」
「変なの」
「うるさい」
その時。
庭の端で、
何かが動いた。
宵壺。
誰も呼んでいない。
一本の腕に、
割れた小皿を持っている。
ヨウが気づいた。
「あ」
「それ」
ユラも見る。
「お母さんの?」
「そうだ」
縁が大きく欠けている。
昨日、
処分する箱へ入れたものだった。
宵壺は、
小皿を持っている。
ヨウが近づく。
「それは要りません」
宵壺は見る。
「捨てるものです」
「そうか」
宵壺は、
地面へ小皿を置いた。
それだけ。
シキが立ち上がる。
「え」
宵壺を見る。
「持ってかないの?」
「なぜ」
「残すんじゃないの?」
「誰が」
「お前」
「知らん」
「昨日いっぱい集めてたじゃん」
「置いてあった」
「これは?」
「要らんのじゃろ」
「……そういう感じ?」
「知らん」
宵壺は別の腕を伸ばす。
庭の隅。
小さな木の実。
拾う。
「それは?」
「置いてある」
「大事?」
「知らん」
「誰の?」
「知らん」
「何の意味が」
「知らん」
シキは笑った。
「お前、何でも残したいわけじゃないんだ」
宵壺は答えない。
そもそも、
残したいとも、
捨てたいとも、
考えていないのかもしれない。
ただ、
残っているものに触れる。
人間が、
その後どうするかは、
人間の話だった。
SCENE 11/14 最後に動いたもの

調査最終日の朝。
シキは、
食堂の入口で止まった。
食卓。
茶碗が一つ。
最初の夜に動いた、
ミナの茶碗。
ただし、
位置が違う。
ミナがいつも座っていた左端ではない。
食卓の中央。
「……」
シキは近づく。
触る。
冷たい。
泥もない。
匂いもない。
ただの茶碗。
ヨウが起きてくる。
止まる。
「またですか」
「うん」
ユラも来る。
三人で、
茶碗を見る。
誰も、
「ミナだ」
とは言わない。
誰も、
「ただの現象だ」
とも言わない。
ヨウが持ち上げる。
「これ、どうする?」
ユラへ聞く。
ユラは少し考えた。
「使えば?」
「誰が」
「私」
「お前には小さいだろ」
「じゃあ小鉢にする」
「茶碗だぞ」
「漬物入れればいいじゃん」
ヨウが、
少し笑った。
「妻に怒られるぞ」
「なんで」
「茶碗に漬物を入れると怒ってた」
ユラも笑う。
「そうだっけ」
「そうだった」
「覚えてない」
「お前は子供だったから」
ヨウが茶碗を見る。
「よく怒ってた」
「何で?」
「何でも」
「嫌な人じゃん」
「嫌な人だった」
ヨウは笑った。
ユラも。
シキも少し笑った。
その日の朝。
ミナの茶碗には、
漬物が入った。
何も起きなかった。
それでよかった。
SCENE 12/14 残すもの

帰る前。
シキはミナの部屋へ入った。
最後の確認。
物は減っている。
服。
箱。
小物。
全部ではない。
ユラが選んだもの。
ヨウが残したもの。
捨てるもの。
まだ決められないもの。
それぞれ分けられている。
机の上に、
十五年前の手紙。
《塩を買ってきて》
シキが見る。
「これは?」
ヨウが後ろから答える。
「残します」
「なんで」
「妻の字だから」
「他にもあるでしょ」
「あります」
「じゃあなんでこれ」
ヨウは、
少し考えた。
「面白いから」
「塩が?」
「十五年も取っておいた妻が」
シキは笑う。
「確かに」
ユラが箱を持って入ってくる。
「お父さんも取っとくじゃん」
「一枚だけだ」
「その一枚から始まるんだよ」
「私は妻とは違う」
「もう似てる」
「似てない」
「似てる」
二人が言い合う。
でも、
昨日までとは違った。
シキは部屋を出る。
玄関。
靴。
茶色い靴は、
まだ置かれている。
「それは?」
ユラが言う。
「残す」
ヨウも、
何も言わなかった。
シキは靴を見る。
もう泥は乾いている。
次の雨で、
また歩くのかもしれない。
もう二度と動かないかもしれない。
どちらでも、
今は分からない。
「じゃ」
シキは鞄を背負う。
「帰る」
ユラが言う。
「また来る?」
「怪異起きたら」
「普通には?」
「遠いし」
「冷た」
「仕事だから」
ヨウが頭を下げる。
「ありがとうございました」
「まだ分かんないこと多いけど」
「十分です」
「何が?」
ヨウは家を見る。
「分からないままでいいものがあると、少し分かったので」
シキは、
その言葉を考える。
「俺は分かりたいけど」
ヨウが笑う。
「巡界衆ですからね」
「うん」
シキは歩き出す。
少しして、
ユラが後ろから叫んだ。
「魚捨てないの?」
シキは振り返らず、
鞄を叩いた。
「まだ!」
「なんで!」
「知らん!」
家から笑い声がした。
SCENE 13/14 記録

巡界衆本部。
トキは報告書を読んでいた。
一枚。
二枚。
三枚。
眉間の皺が深くなる。
「また長くなりましたね」
「必要事項」
「ミナ氏が魚の皮を嫌っていた情報は必要ですか」
「人物像」
「不要です」
「でも嫌いだった」
「それは分かりました」
トキが紙を置く。
「第三ノ御霊・宵壺」
「うん」
「死者との関連性が高い?」
「いや」
シキは即答した。
「では、なぜ死者の物だけが」
「今回の家では、だろ」
トキが止まる。
「宵壺自体は、ミナじゃない物も拾ってた」
「なるほど」
「死者だからっていうより、残ってるもの」
「残留物?」
「物だけじゃない」
「記憶?」
「それとも違う」
「行動?」
「それもある」
「では何ですか」
「分からん」
トキの眉間の皺が増える。
「報告書です」
「だから分からんって書けばいいじゃん」
「分類できません」
「無理に分類して間違えるよりよくない?」
トキが、
シキを見る。
「あなたがそれを言いますか」
「何」
「以前なら、とりあえず分類していました」
「俺そんな雑?」
「かなり」
「ひど」
トキは紙へ戻る。
最終記録。
《第三ノ御霊・宵壺》
《観測現象:人物・物品・場所に残存した痕跡の顕在化》
《対象:物質、配置、反復行動その他》
《死者本人の残存:確認できず》
《死者蘇生:確認できず》
《時間遡行:確認できず》
《記憶再生:断定できず》
《対象となる「残余」の範囲:不明》
《発生条件:不明》
《目的:不明》
トキが指で叩く。
「《その他》が雑です」
「分かんないから」
「今後の観測課題ですね」
「うん」
「無悼については?」
「別紙」
「救済による記憶障害」
「なし」
「人格変容」
「確認できず」
「愛着消失」
「なし」
「悲哀そのものの消失」
「なし」
「生活機能」
「ヨウは戻ってる」
「本人評価」
「救われたって」
トキが書く。
「では、有効な救済事例ですね」
「うん」
シキは普通に答えた。
トキが顔を上げる。
「反対しないんですね」
「何に」
「無悼に」
「なんで反対するの」
「いえ」
「ヨウは助かってたよ」
「はい」
「無悼がなかったら、もっとひどくなってたかもしれない」
「その可能性はあります」
「じゃあいいじゃん」
トキは、
「ではユラ氏も受けるべきだったと?」
と聞いた。
シキが止まる。
「それは違う」
「なぜ」
「本人が今日じゃないって決めたから」
「将来受けることには?」
「別に」
「受けないことには?」
「別に」
「どちらでも?」
「本人が決めれば」
「救済後、完全に同じ状態へ戻せないとしても?」
シキは少し考える。
「だから先に聞くんじゃない?」
「説明を?」
「うん」
「理解した上で選ぶ」
「うん」
トキは書く。
「では、問題は無悼ではなく、選択時の理解と意思確認?」
「……たぶん」
「たぶん」
「まだ分からん」
トキは筆を止めた。
以前なら、
嫌な顔をしたかもしれない。
今回は、
そのまま紙へ書いた。
《保留》
シキが覗く。
「それだけ?」
「それだけです」
「いいの?」
「何がですか」
「記録として」
トキは紙を揃えながら答えた。
「分からない、という記録も記録です。」
シキがトキを見る。
「何ですか」
「いや」
少し笑う。
「いいじゃん」
「何が」
「別に」
トキは報告書を閉じた。
表紙。
《第三ノ御霊・宵壺 観測記録》
その横。
《第三天律・無悼 救済事例》
二冊。
同じ机の上に置かれる。
どちらかが、
正しいわけではなかった。
SCENE 14/14 残っている

三か月後。
ミナの家で、
もう一度だけ物が動いた。
庭の物置にしまってあった、
古い籠。
朝になると、
井戸の横に置かれていた。
昔、
ミナが洗濯物を入れていた籠だった。
ユラが見つけた。
「お父さん」
ヨウが来る。
二人で見る。
籠。
井戸。
誰もいない庭。
「戻す?」
ユラが聞く。
ヨウは少し考えた。
「使うか」
「何に」
「洗濯物」
「穴空いてるよ」
「直せば」
「お父さん直せる?」
「無理だな」
「じゃあ捨てる?」
「……」
二人で籠を見る。
ユラが笑う。
「後で決めよ」
「そうするか」
籠は、
その日一日、
井戸の横に置かれていた。
次の日。
ヨウが修理を試した。
失敗した。
ユラが笑った。
結局、
近所の職人へ持っていった。
籠は、
また使われるようになった。
ユラがその後、
無悼の救済を受けたのか。
記録には残っていない。
受けなかったのかもしれない。
一年後に受けたのかもしれない。
もっと後かもしれない。
それを、
巡界衆が追跡する必要はないと判断した。
ヨウは、
妻の物をさらに整理した。
残したものもある。
捨てたものもある。
誰かへ譲ったものもある。
何だったのか分からないまま、
箱へ戻したものもある。
茶色い靴は、
長く玄関に残った。
もう一度歩いたという記録はない。
宵壺は、
町の外れで時々目撃された。
壺のような身体。
地蔵のような頭。
地面を這う、
何本もの腕。
何かを探しているように見える。
けれど、
本人に聞けば、
たぶん探していないと言う。
ある夕方。
道端。
宵壺は、
小さなボタンを拾った。
茶色。
安物。
糸が少し残っている。
誰のものか分からない。
いつ落ちたのかも分からない。
持ち主は、
もう落としたことすら忘れているかもしれない。
近くを通った子供が、
宵壺を見つけた。
怖がるかと思ったが、
そうでもなかった。
少し離れて、
しゃがむ。
「何それ?」
宵壺は答えない。
子供がボタンを見る。
「誰の?」
「知らん」
「大事なもの?」
「知らん」
「じゃあなんで持ってるの?」
宵壺は、
ボタンを見る。
一本の腕が動く。
壺の中へ。
こと。
小さな音。
「置いてあったから。」
子供は首を傾げた。
「変なの」
宵壺は怒らない。
子供は立ち上がる。
走っていく。
しばらくして、
姿が見えなくなる。
道には、
小さな足跡が残っていた。
風が吹く。
砂が動く。
足跡の端が、
少しずつ崩れる。
明日には、
消えているかもしれない。
雨が降れば、
もっと早い。
誰にも拾われないものもある。
捨てられるものもある。
残したいものもある。
残したくないのに、
残ってしまうものもある。
大切だったのに、
いつの間にか消えるものもある。
何でもなかったのに、
なぜか最後まで残るものもある。
そして、
痛くなくなっても、
残るものがある。
宵壺は、
それらを区別しなかった。
正しいとも、
間違っているとも言わない。
大切だとも、
捨てるなとも言わない。
ただ、
そこに残っていたものへ、
一本の腕を伸ばした。
遠く。
家の窓に、
灯りがついた。
ヨウとユラが、
夕飯を食べている。
食卓の中央には、
小さな茶碗。
その中には、
漬物が入っていた。
もう、
誰の席にも置かれていない。
それでも、
なくなってはいなかった。