CHAPTER 04
第四章 夢喰――まだないもの
まだ欲しくないものを、願えるだろうか。
あらすじ
「完成した」と言われた一枚の絵。しかし画家・イオリは、その絵に何かが足りないと感じていた。同じ頃、周囲では夢にまつわる奇妙な話が聞かれるようになる。調査に訪れたシキは、まだ誰にも説明できない現象と、描けないものを描こうとする画家に出会う。
SCENE 01/15 完成した絵

その画家は、
完成していない絵を、
完成したと言い張った。
「どこが?」
シキは聞いた。
「全部です」
画家は答えた。
「……白いけど」
「はい」
巨大な画布だった。
高さはシキの身長の倍近くある。
横幅は、さらに広い。
そのほとんどが白い。
左下にだけ、
黒い線が一本。
それだけ。
シキはしばらく眺めた。
右へ行くでもない。
左へ行くでもない。
途中で途切れた、
短い線。
「これで?」
「完成です」
「本当に?」
「はい」
「依頼書には、描けなくなったって書いてあるけど」
画家は黙った。
「どっち?」
「……完成です」
「じゃあ俺、帰っていい?」
「困ります」
「完成してんだろ」
「完成しているんです」
「じゃあ何に困ってんの」
画家は、
白い画布を見る。
三十一歳。
名はイオリ。
王都から少し離れた町で、
絵を描いて暮らしている。
無名ではない。
むしろ、よく売れる画家だった。
肖像。
風景。
宗教画。
店の看板。
祭礼の幕。
頼まれれば何でも描く。
納期を守る。
依頼主の注文を聞く。
描き直しにも応じる。
そのイオリが三か月前から、
一枚の絵だけを描けなくなった。
正確には、
描こうとし続けている。
鳥を描いた。
消した。
海を描いた。
消した。
女を描いた。
消した。
山を描いた。
消した。
最後に残ったのが、
黒い線一本だった。
「何を描こうとしてた?」
「分かりません」
「鳥じゃないの?」
「違いました」
「海」
「違いました」
「女」
「違いました」
「山」
「違いました」
「じゃあ何なら合うんだよ」
イオリは、
乾いた声で笑った。
「それが分かれば、描いています」
「誰かに頼まれた?」
「いいえ」
「売る?」
「分かりません」
「飾る?」
「分かりません」
「誰かに見せる?」
「分かりません」
「何のために描いてんの」
イオリは答えなかった。
シキは、
少し苛立った。
「じゃあ、やめれば?」
その瞬間だった。
イオリの顔に、
はっきりと恐怖が出た。
「……それは」
「嫌?」
「違います」
「じゃあ」
「やめたら」
白い画布を見る。
「もう二度と、自分の絵を描けない気がするんです」
シキは、
そこで初めて、
報告書から顔を上げた。
SCENE 02/15 欲しいもの

イオリは、
絵が描けなくなったわけではなかった。
翌朝。
シキが起きると、
イオリは肖像画を描いていた。
「描けてんじゃん」
「これは仕事です」
「同じ絵だろ」
「違います」
依頼主は商人。
妻への贈り物。
実物より少し若く。
だが、
本人だと分からなくなるほど美化しない。
背景には商店。
右手には帳簿。
衣装は紺。
「これなら完成が分かります」
イオリは言った。
「どこまで描けばいいか?」
「はい」
「依頼主が喜べば?」
「それもあります」
「じゃあ白いやつは?」
筆が止まる。
「分かりません」
「誰も頼んでないから?」
「たぶん」
「自分で決めればいいじゃん」
「それができないんです」
「何で」
イオリは、
少し考えてから言った。
「何を欲しいと思えばいいのか、分からない」
シキは黙った。
「絵の話?」
「たぶん」
「たぶん?」
「自分の絵を描くなら、自分が描きたいものを選ばなければならないでしょう」
「うん」
「でも、何を描きたいか分からない」
「じゃあ描きたくないんじゃない?」
「それも分かりません」
「面倒くせえな」
「すみません」
「謝るなよ」
イオリは、
また肖像画へ筆を置いた。
シキはその横顔を見る。
仕事を嫌っているようには見えない。
だから聞いた。
「人に頼まれた絵、嫌い?」
「いいえ」
「金のために仕方なく?」
「それも違います」
「褒められたら?」
「嬉しいです」
「売れたら?」
「嬉しいです」
「依頼主が喜んだら?」
「嬉しいです」
「じゃあいいじゃん」
「はい」
イオリは頷いた。
「私も、そう思います」
シキが眉を寄せる。
もっと単純な話だと思っていた。
本当は自由な絵を描きたい。
でも、
仕事に縛られて描けない。
そんな話なら、
まだ分かりやすい。
違った。
イオリは、
頼まれた絵を描くことが好きだった。
評価されることも。
金を稼ぐことも。
人に喜ばれることも。
全部、
本人の欲求だった。
「じゃあ、何であれ描き始めたの」
シキが白い画布を指す。
イオリは、
少しだけ黙った。
「先生が死んだからです」
SCENE 03/15 最後の注文

シエン。
六十八歳。
画家。
イオリの師。
半年前に病死した。
イオリが十二歳の頃から、
絵を教えていた。
技術。
色。
構図。
絵具の作り方。
依頼主との話し方。
値段の付け方。
断る仕事。
受ける仕事。
「厳しかった?」
「かなり」
「嫌いだった?」
「好きでした」
「尊敬してた?」
「今もしています」
「死んだ時は?」
「悲しかったです」
「今も?」
「時々」
「無悼は?」
「受けていません」
「受けたい?」
「今のところは」
「そっか」
第三章の一件以来、
シキはこの質問を以前より丁寧にするようになっていた。
「先生、最後に何か言った?」
イオリが黙る。
「言ったんだ」
「はい」
「何」
イオリは、
嫌そうに答えた。
「最後に一枚くらい、自分の絵を描け。」
シキは、
白い画布を見る。
「それで?」
「はい」
「先生の遺言?」
「そんな大層なものではありません」
「でも守ろうとしてる」
「……はい」
「何で」
「先生が言ったから」
「自分で描きたいからじゃなく?」
イオリは答えない。
「先生に言われたから描いてるなら、それも依頼と一緒じゃん」
イオリの顔が硬くなる。
「違います」
「何が」
「これは仕事ではありません」
「でも先生の注文だろ」
「違う」
「じゃあ何」
「……」
「ほら」
イオリが、
少し怒った。
「あなたは、何でも答えられるんですか」
「答えられないけど」
「なら」
「俺はお前じゃないから」
言って、
二人とも止まった。
イオリが、
先に視線を外した。
「……そうですね」
シキも、
それ以上言わなかった。
ただ、
報告書には一行追加した。
《制作開始の契機:師シエンの発言》
その下。
《本人の制作欲求との関係:不明》
最近、
《不明》が増えた。
以前なら、
もう少し適当に決めていた気がする。
SCENE 04/15 まだない

四日目の夜。
シキはアトリエの床で寝ていた。
イオリは二階。
夜半。
ぱさ。
音。
シキが目を開ける。
ぱさ。
また。
鳥ではない。
もっと大きい。
布を振るような音。
シキは起き上がった。
月明かりの中。
白い画布の前に、
何かがいる。
獣。
獏に似た身体。
しかし背から伸びるのは、
毛ではない。
巨大な蛾の翅。
あるいは蝶。
幾重にも重なり、
翅の表面には目のような模様。
顔には、
白い面。
能面に似ている。
笑っているようにも、
泣いているようにも見える。
シキは短刀へ手を伸ばした。
「……夢喰?」

第四ノ御霊。
夢喰。
古い記録には、
人間の夢を食う。
叶わなかった願いを見せる。
眠りの中で未来を見せる。
悪夢を集める。
今回も、
記録ごとに好き勝手書かれていた。
夢喰は、
白い画布を見ている。
「イオリに何かした?」
返事なし。
「何見てんの」
「ない」
「何が」
「まだ」
「何がまだない?」
夢喰は答えない。
「絵?」
「ない」
「描きたいもの?」
沈黙。
「未来?」
夢喰の面が、
こちらを向く。
「違う」
「じゃあ何」
翅が開いた。
ぱさ。
白い画布に、
色が浮かんだ。
海。
青。
シキが止まる。
海は、
一瞬で消えた。
山。
消える。
巨大な鳥。
消える。
見たことのない町。
消える。
老人になったイオリ。
消える。
幼い子供と歩くイオリ。
消える。
絵を描いていないイオリ。
消える。
知らない女。
知らない男。
知らない国。
空に浮かぶ海。
逆さに建つ家。
黒い花。
存在しない文字。
何百。
何千。
形になる前に、
次のものへ変わる。
シキは、
目を離せなかった。
「これ、起きるの?」
「知らん」
「未来じゃない?」
「違う」
「イオリが望んでる?」
「違う」
「夢?」
「違う」
「じゃあ何なんだよ」
夢喰は、
画布を見る。
「まだない。」
「だから何が」
「ないもの。」
シキは黙った。
起きた未来ではない。
これから起きると決まった未来でもない。
イオリが願っていたものでもない。
ただ、
まだ存在していない。
夢喰は、
それを一瞬だけ、
見えるところへ出している。
「それ、見せてどうすんの」
「知らん」
「何でイオリに?」
「知らん」
「役に立つ?」
「知らん」
「害は?」
「知らん」
シキは頭を掻いた。
「お前ら本当に説明しねえな」
夢喰は、
気にしなかった。
その時。
二階で、
床が鳴った。
イオリが眠っている。
夢喰の翅が閉じる。
画布から、
すべての像が消えた。
また、
白。
黒い線一本。
夢喰も、
いなくなっていた。
SCENE 05/15 見てしまった

翌朝。
イオリは、
絵を描いていた。
猛烈な勢いで。
「おい」
返事なし。
青。
白。
黒。
巨大な画布へ、
色が重なる。
「イオリ」
ようやく振り返る。
目が赤い。
でも、
昨日までとは違う。
興奮している。
「見つけました」
「何を」
「描きたいもの」
シキは画布を見る。
止まった。
海。
ただし、
普通の海ではない。
下にも海。
空にも海。
二つの海の間を、
小さな人間が歩いている。
昨夜、
夢喰が見せたもの。
「これ」
「綺麗でしょう」
「昨日見た」
イオリの手が止まる。
「何を?」
シキは説明した。
夢喰。
画布。
無数の像。
イオリは、
青ざめた。
「私も見ました」
「起きてた?」
「夢で」
「どれくらい」
「分かりません」
「海以外も?」
「たくさん」
「未来だと思った?」
「最初は」
「違うって」
「誰が?」
「夢喰」
「信用できるんですか」
「知らん」
イオリは、
描きかけの海を見る。
「でも」
シキが聞く。
「これ描きたいんだろ?」
「はい」
「じゃあいいじゃん」
「……」
「何」
「これを見なかったら」
イオリは、
筆を見る。
「私は、これを描きたいと思わなかった」
「そりゃそうだろ」
「なら」
イオリがシキを見る。
「これは、本当に私が描きたかったものなんでしょうか。」
シキは、
口を開く。
閉じる。
また開く。
「……今は描きたい?」
「はい」
「じゃあ今はそうなんじゃない?」
「今は」
「うん」
「昨日の私は?」
「知らん」
「明日の私は?」
「もっと知らん」
イオリは、
少し笑った。
「役に立ちませんね」
「未来聞かれても無理」
シキは画布を見る。
「でも、見たから欲しくなるなんて普通じゃない?」
「普通?」
「食ったことない物、見て食いたくなるとか」
イオリが止まる。
「……そうですね」
「行ったことない町見て、行きたくなるとか」
「はい」
「会ってない人に会って、好きになるとか」
「それは会った後ですね」
「細かいな」
シキは、
昨夜の夢喰を思い出した。
まだないもの。
見る前には、
選べなかったもの。
選択肢ですらなかったもの。
「とりあえず描けば?」
「軽いですね」
「違ったら消せばいいじゃん」
イオリが、
巨大な画布を見る。
三か月間、
何度も消した跡。
「……また?」
「何回でも」
イオリは、
筆を持った。
そして、
続きを描き始めた。
SCENE 06/15 夢喰の噂

問題は、
それからだった。
イオリの絵を見た画材屋が、
誰かに話した。
その誰かが、
また誰かへ話した。
三日で、
話はこうなった。
――夢喰に会えば、本当に欲しいものが分かる。
五日で、
こうなった。
――夢喰は、叶う未来を見せる。
七日で、
こうなった。
――夢喰に選ばれた人間は、望みを知ることができる。
「全部違う!」
シキは、
アトリエの前に集まった人間を追い返していた。
「でも画家は見たんでしょう?」
「見たけど!」
「欲しいものが分かった」
「分かったっていうか」
「私も見たい」
「俺も」
「店を継ぐべきか知りたい」
「結婚するべきか」
「この町を出るべきか」
「子供を作るべきか」
「仕事を変えるべきか」
「知らん!」
シキは叫んだ。
「夢喰も知らん!」
「では、なぜ見せるんです?」
「それも知らん!」
「何も分からないじゃないですか」
「だから調査してんだよ!」
扉を閉める。
背中をつける。
「……疲れた」
イオリは、
奥で海を描いている。
「人気者ですね」
「お前のせいだよ」
「私は何も」
「絵見せたろ」
「画材屋にだけ」
「それが始まり」
「すみません」
「だから謝るな」
その時。
外が、
静かになった。
さっきまでの騒ぎが、
急に消える。
シキが扉を開ける。
人々が、
道の中央を見ていた。
白い光。
その中を、
一人の少年が歩いてくる。
いや。
少年の形をした、
何か。
白磁の肌。
淡い髪。
十五、六に見える。
性別は分からない。
背後。
巨大な天球儀。
黄金の輪が幾重にも交差し、
その上を星が巡る。
星と星の間には、
細い光の線。
完成された星図。
一点の乱れもない。
原天とは、
まるで違う。
美しい。
恐ろしいほど。
シキは、
その名を知っていた。
第四天律。
満願。
SCENE 07/15 満願

満願は、
人々の前で止まった。
誰かが祈った。
「神様」
別の人間も頭を下げる。
満願は、
穏やかに微笑んだ。
「何を望みますか。」
商人が前へ出る。
「店を大きくしたい」
「なぜですか。」
「家族を楽にしたい」
満願の天球儀が回る。
星が、
いくつか光る。
「あなたが望むのであれば、成就へ至る道を整えられます。」
「本当に?」
「はい。」
別の女。
「死んだ夫にもう一度会いたい」
満願は、
少しだけ表情を変える。
悲しむように。
「それは成就できません。」
女の顔が落ちる。
だが満願は続ける。
「けれど、あなたが望んでいるものが『夫そのもの』だけではないのであれば、別の形を探すことはできます。」
「別の?」
「あなたが夫に伝えられなかった言葉を、残された人へ伝えること。」
「夫と過ごした場所を守ること。」
「再び誰かと生きること。」
「一人で生きられるようになること。」
女が、
「それを神様が決めるんですか」
と聞いた。
満願は首を振った。
「いいえ。」
「あなたの中に存在する願いから、選びます。」
シキが、
そこで満願を見る。
満願は続ける。
「望みが現在の形では成就できない時、根にある願いを損なわない別の形へ移す。」
「それを、転願と呼びます。」
「それでも苦しいなら?」
女が聞く。
「願うことそのものがあなたを苦しめ、あなた自身がそれを望むなら、願いを静めることもできます。」
「忘れる?」
「いいえ。」
「夫を好きじゃなくなる?」
「いいえ。」
「会いたかったことは?」
「覚えています。」
「じゃあ何が変わるの」
「叶わなければ生きられないほど、願いに苦しめられることがなくなります。」
女は、
長く考えた。
「今日は、いいです」
満願は微笑む。
「はい。」
それだけだった。
説得しない。
追わない。
シキは、
無悼を思い出した。
救いは、
いつも美しい。
SCENE 08/15 作れない願い

人々が帰った後。
満願は、
イオリのアトリエへ入った。
白かった画布。
今は、
二つの海。
満願は、
しばらく見る。
「どう?」
シキが聞く。
「神でも絵分かる?」
満願は少し笑った。
「美しいと思います。」
イオリが、
少し照れた。
「ありがとうございます」
シキが言う。
「で、こいつ困ってる」
「言い方」
「三か月描けなかった」
満願がイオリを見る。
「何を望んでいますか。」
イオリは、
答えられなかった。
「それが分からない」
シキが代わりに言う。
「分からないから困ってる」
満願の天球儀が、
ゆっくり回る。
イオリの仕事。
師。
絵。
評価。
生活。
金。
喜び。
自由。
創作。
無数の光が浮かぶ。
満願は、
目を閉じた。
長い沈黙。
そして、
言った。
「あなたの中には、複数の願いがあります。」
イオリが見る。
「人に喜ばれたい。」
「優れた画家でありたい。」
「師の言葉に応えたい。」
「自分の絵を描きたい。」
「失敗したくない。」
「選んだものを間違いにしたくない。」
イオリの顔が、
少しずつ変わる。
全部、
心当たりがある。
満願が続ける。
「私は、それらを整えることができます。」
シキが聞く。
「新しい願いも作れる?」
満願が、
シキを見る。
「いいえ。」
即答だった。
「できない?」
「存在しない願いを、本人の願いとして与えることはできません。」
シキは、
少し意外だった。
「じゃあ、こいつが何描きたいか分からないのは?」
「私にも、存在しないものは満たせません。」
イオリが、
顔を上げる。
「では」
「私は何を描きたいんですか」
満願は答える。
「分かりません。」
沈黙。
イオリが、
少し笑った。
「神様でも?」
「はい。」
満願は、
恥じなかった。
「あなたがまだ願っていないものを、私はあなたの願いとして扱えません。」
シキは、
夢喰を見るように窓の外を見る。
「夢喰は見せる」
満願も、
そちらを見る。
「はい。」
「まだ欲しいと思ってないものを」
「はい。」
「お前はそれを叶えられない?」
「彼が、それを望むまでは。」
シキは、
そこでようやく、
二柱の違いを理解した。
夢喰は、
願いを叶えない。
そもそも、
願いである必要すらない。
まだないものを、
見せるだけ。
満願は、
願いを救う。
だが、
まだ願われていないものには、
触れない。
SCENE 09/15 三つの救い

イオリが、
満願へ聞いた。
「私の場合は」
「何ができますか」
満願の星図が回る。
「あなたは現在、この絵を完成させたいと願っています。」
「はい」
「同時に、間違ったものを完成させたくないと願っています。」
「……はい」
「師の言葉に応えたい。」
「はい」
「しかし、師に決められたくもない。」
イオリが黙る。
「どれも、あなたの願いです。」
「矛盾してますね」
「人の願いは、しばしば矛盾します。」
「それでも救える?」
「はい。」
満願が手を伸ばす。
天球儀から、
三つの星が降りる。
一つ。
成就。
「現在あなたが選んでいる絵を、完成へ導く。」
二つ。
転願。
「『自分の絵を完成させなければならない』という願いを、別の形へ移す。」
「例えば、完成ではなく、制作を続けること。」
「あるいは、自分の作品を一つに定めず、複数残すこと。」
三つ。
静願。
「『自分の絵を完成させなければならない』という願いそのものが苦痛であり、あなたがそれを望むなら、その切迫を静める。」
イオリは、
三つの光を見る。
「どれが正しい?」
満願は答える。
「正しさは決めません。」
「一番幸せになるのは?」
「現在のあなたについて、最も苦痛が少ない経路を示すことはできます。」
「それを選べば?」
「現在のあなたにとっては、救済となる可能性が高いでしょう。」
「未来の私は?」
満願は、
少しだけ黙った。
「未来は、まだ現在ではありません。」
シキが満願を見る。
結世も、
似たことを言った。
未来は確定していない。
満願も、
未来を知らない。
「じゃあ」
シキが言う。
「今ある願いを全部満たした後で、別のもの欲しくなったら?」
「その時、また願えばよいのです。」
「変えていい?」
「もちろんです。」
「一回満願使ったら固定?」
「いいえ。」
ここは、
シキが想像していたよりずっと柔らかかった。
満願は、
願いを永遠の正解にしない。
少なくとも、
自分からは。
「じゃあ問題なくない?」
シキが言った。
イオリが見る。
「何がですか」
「今欲しいもの叶えて、違ったらまた変えればいい」
「……」
「満願もそう言ってるし」
満願も否定しない。
イオリは、
三つの星を見る。
そして、
聞いた。
「でも」
「はい」
「まだ知らないものは?」
満願の星が、
止まった。
「夢喰が見せた海みたいな」
イオリは、
自分の絵を見る。
「昨日まで、欲しいと思ったことすらなかったもの」
満願は答える。
「それは、私には満たせません。」
「どうすれば?」
「出会う必要があります。」
「何に?」
「それは、私には分かりません。」
イオリは、
少し笑った。
「不便ですね」
満願も、
ほんの少し笑った。
「はい。」
SCENE 10/15 消した海

翌朝。
シキが起きると、
海が消えていた。
「は?」
巨大な画布。
昨日までの青。
ほとんど白く塗り潰されている。
イオリは、
その前で茶を飲んでいた。
「お前!」
「おはようございます」
「海!」
「消しました」
「何で!」
「違うと思ったので」
「三日描いてたじゃん!」
「はい」
「綺麗だったじゃん!」
「はい」
「満願も褒めてた!」
「はい」
「じゃあ何で!」
イオリは、
少し考えた。
「昨日までは描きたかったからです」
「今は?」
「違うものを描きたい」
「何」
「分かりません」
シキは頭を抱えた。
「戻ったじゃん!」
イオリが笑う。
「そうですね」
「また白じゃん」
「でも」
イオリは、
白い画布を見る。
「前とは違います」
「どこが」
「今は、白いままでも完成だとは思っていません」
「じゃあ未完成?」
「はい」
「それでいいの?」
「今は」
シキは、
しばらく黙った。
三か月前。
イオリは、
完成していないものを完成したことにして、
終わらせようとした。
今。
未完成だと認めて、
その前に座っている。
「満願は?」
「受けませんでした」
「何で」
「必要になったら呼びます」
「成就も?」
「今は」
「転願」
「今は」
「静願」
「今は」
シキは、
第三章のユラを思い出した。
今日ではない。
ただ、
それだけ。
SCENE 11/15 夢喰と満願

町を出る前夜。
シキは、
夢喰をもう一度見つけた。
丘。
月。
巨大な蛾の翅。
能面。
「なあ」
夢喰が見る。
「満願知ってる?」
「知っておる」
「仲悪い?」
「知らん」
「何でだよ」
「会う」
「会うの?」
「ある」
「何話す?」
「知らん」
シキは、
もう慣れていた。
「お前が見せたものを、人間が願い始めたら」
「うん」
「満願が叶えることもある?」
「ある」
「じゃあ、お前が願いを作ってるようなもんじゃない?」
夢喰は、
長く黙った。
シキは待つ。
やがて。
「見ただけで、願うとは限らん。」
「まあ」
「願っても、続くとは限らん。」
「海消したしな」
「知らん。」
「知ってるじゃん」
「知らん」
夢喰の翅が開く。
夜空に、
一瞬だけ、
何かが映る。
知らない町。
巨大な白い建物。
八つの光。
その中心に、
大きな円。
シキが目を細める。
次の瞬間には、
消えた。
「今の何」
「ないもの」
「未来?」
「違う」
「起きる?」
「知らん」
「……そう」
シキは、
追及しなかった。
まだないものを、
今の答えにする必要はない。
夢喰は、
夜の向こうへ消えた。
SCENE 12/15 先生の絵

翌朝。
イオリが、
一枚の古い絵を出した。
「何これ」
「先生の絵です」
晩年のシエン。
色は濁っている。
線も荒い。
構図も変だった。
若い頃の作品の方が、
明らかに上手い。
「下手じゃない?」
「私もそう思います」
「いいの?」
「先生も言っていました」
「何て」
「下手になった、と」
シキが笑う。
「自分で?」
「はい」
「じゃあ何で描いた」
「聞きました」
「答えは?」
イオリは、
老人の声を真似るように言った。
「知らん。描いてから考える。」
シキが吹き出した。
「原天じゃん」
「私も最近そう思います」
二人で笑う。
イオリは、
制作中の巨大な画布を見る。
「先生に言われたから、描き始めました」
「うん」
「それは変わりません」
「うん」
「だから、完全に私だけから始まった絵ではありません」
「別にいいんじゃない」
イオリが見る。
「そう思いますか」
「だって」
シキは、
少し考える。
「完全に自分だけで決めたものなんて、そんなある?」
「……」
「先生に言われたり。誰かの絵見たり。町見たり。夢喰見たり」
「はい」
「それで欲しくなったなら、それもお前のじゃないの」
イオリは、
少し考える。
「では、本当の自分とは?」
「知らん」
「そこは考えてくださいよ」
「俺、巡界衆」
「関係あります?」
「ない」
イオリが笑う。
シキも笑った。
「ただ」
シキは言う。
「違うと思ったら消せばいいじゃん」
イオリが、
白く塗り直した海の跡を見る。
「簡単に言いますね」
「消したのお前だろ」
「そうでした」
イオリは筆を持つ。
「では、また描きます」
「何を」
「分かりません」
「そっか」
今度は、
それで会話が終わった。
SCENE 13/15 選べない男

町を出た。
街道。
昼。
向こうから、
見覚えのある男が来る。
「……エン?」
男が止まる。
「シキ?」
六辻街道で会った青年だった。
相変わらず、
荷物一つ。
「何してんの」
「旅」
「まだ?」
「まだ」
「仕事は」
「時々」
「前、何欲しいか分からんって言ってたよな」
「言った」
「今は?」
エンは考える。
「まだ分からない」
「結世は?」
「使ってない」
「何で」
「何を頼むか決まってないから」
「満願なら?」
「何それ」
「願い叶える神」
「願い決まってないのに?」
「……無理だな」
「じゃあ同じじゃん」
シキは笑った。
「確かに」
「シキはどこ行くの」
「本部」
「何で」
「仕事終わったから」
「その後」
「知らん」
エンが笑う。
「同じじゃん」
「違う」
「何が」
「俺は仕事ある」
「そこ?」
「大事」
二人は、
道の分岐まで一緒に歩いた。
「俺、西」
エンが言う。
「何かある?」
「行ったことない」
「それだけ?」
「それだけ」
「何もないかも」
「そうかも」
「戻る?」
「その時考える」
シキは、
少しだけ笑った。
「じゃ」
「また」
二人は別れた。
エンが、
西。
シキが、
北。
どちらの道が正しいのか。
そもそも正解があるのか。
二人とも、
考えなかった。
SCENE 14/15 未在

本部。
トキが報告書を読む。
「第四ノ御霊・夢喰」
「うん」
「夢を食べない」
「確認してない」
「名称は何なのでしょう」
「昔の人がそう見えたんじゃない」
「観測現象」
シキは書く。
《未実現事象の提示》
トキが見る。
「未来予知?」
「違う」
《未来予知:確認できず》
「願望の可視化?」
「違う」
《願望読取:確認できず》
「夢?」
「違うって言ってた」
《夢内容の再現:確認できず》
「では、何を提示しているんですか」
シキは、
少し考える。
「まだないもの」
「記録用語としては」
「未在」
トキの筆が止まる。
「未在」
「まだ在らない」
トキは、
しばらく考えた。
「悪くありません」
「褒めた?」
「分類上使用可能だと言っただけです」
記録。
《第四ノ御霊・夢喰》
《観測現象:未在事象の一時的顕在化》
《未来予知:確認できず》
《願望読取:確認できず》
《夢内容の再現:確認できず》
《提示事象の将来的実現可能性:不明》
《対象選定条件:不明》
《目的:不明》
次。
満願。
《第四天律・満願》
《救済対象:願望に起因する持続的苦痛》
《確認された救済形式:成就/転願/静願》
《存在しない願望の新規付与:不可》
《既存願望の整理・救済経路提示:可能》
《記憶・人格保持》
《救済は本人の意思に基づく》
トキが、
最後の一文を見る。
「問題は確認しましたか」
シキは考える。
「満願自体?」
「はい」
「今回、特に」
「では有効な救済?」
「だと思う」
「思う」
「願い叶うんだろ。助かる人いっぱいいるじゃん」
「でしょうね」
シキは、
夢喰の見せた海を思い出す。
「ただ」
「はい」
「今持ってる願いを叶えても」
「はい」
「その後、知らなかったもの見て、別のもの欲しくなることあるじゃん」
「当然でしょう」
「じゃあ」
シキは言う。
「その時また変えればいいんだよな」
トキが見る。
「何を?」
「願い」
「満願も、そのように説明しています」
「ならいい」
トキは、
少しだけシキを見た。
「何ですか」
「いや」
「何」
「あなた、以前より天律を疑わなくなりました?」
シキは眉を寄せる。
「俺、天律嫌いって言ったことある?」
「ありません」
「じゃあ何」
「いえ」
トキは報告書を閉じる。
シキは、
少し考える。
不幻老。
万来樹。
宵壺。
夢喰。
天導。
結世。
無悼。
満願。
どちらが正しい、
という話ではない。
少なくとも、
今のところは。
「でもさ」
シキが言う。
「何ですか」
「満願で全部叶えたら、どうなるんだろ」
「幸せなのでは?」
「そうかな」
「違うのですか」
シキは考える。
「知らん」
トキは、
何も書かなかった。
その問いは、
今回の報告には必要なかった。
SCENE 15/15 描き直す

半年後。
巡界衆へ、
荷物が届いた。
送り主。
イオリ。
大きな封筒。
中には、
一枚の絵。
正確には、
巨大な原画を小さく写したもの。
シキが広げる。
「……何これ」
トキも見る。
最初の海ではない。
山でもない。
鳥でもない。
人物でもない。
白い空間。
中央に、
一本の黒い線。
最初に残っていた線。
ただし、
今はそこから、
無数の色が伸びている。
赤。
青。
黄。
黒。
白。
交差する。
途中で切れる。
戻る。
別れる。
画布の外へ出る。
他の線に隠れる。
どれが中心なのか、
分からない。
「完成したの?」
トキが聞く。
「手紙ある」
裏。
イオリの字。
《完成しました。》
シキが読む。
次。
《たぶん。》
シキが笑った。
「何ですか」
「続き」
《来月、描き直すかもしれません。》
トキが眉を寄せる。
「それは完成と言えるのでしょうか」
シキは、
絵を見る。
「一回完成したんじゃない?」
「描き直すのに?」
「完成した後に変えちゃダメなの?」
トキは、
少し考える。
「一般的には」
「一般的には?」
「……分かりません」
シキが笑う。
「いいじゃん」
「何が」
「分からないって記録」
トキは、
嫌そうな顔をした。
遠い町。
アトリエ。
イオリは、
完成した絵の前に立っていた。
巨大な画布。
無数の線。
一度は、
これで終わりだと思った。
昨日までは。
今日は、
少し違った。
イオリは、
筆を持つ。
躊躇する。
置く。
茶を飲む。
また持つ。
窓の外。
夜。
巨大な蛾の翅が、
一瞬だけ通った。
イオリは、
気づかなかった。
画布を見る。
黒い線。
青い線。
赤い線。
まだ、
どこにもない場所。
まだ、
誰にも見せていない形。
まだ、
自分自身ですら、
欲しいのか分からないもの。
イオリは、
完成した絵の中央へ、
新しい線を一本引いた。
昨日までは、
なかった線。
それが何になるのかは、
まだ誰も知らない。
夢喰も知らない。
満願も知らない。
イオリ自身も、
知らない。
だから、
違ったら、
また描き直せる。