GITEN SHINWA

第零章 天導――神様が生まれた日

「救いたい」と願った日、神は生まれた。

あらすじ

約百二十年前、白枯病が広がる白伏村。病に倒れた母のそばで、一人の少女はただ「助けて」と願った。まだ神々が今の名で呼ばれていなかった時代。これは、白伏村の歴史を大きく変えることになる、ある夜の記録。

SCENE 01/14 母親が死ぬ日

その日、

少女はまだ、

神様というものを知らなかった。

知っていたのは、

母親が死ぬということだけだった。

「お母さん」

返事はない。

「お母さん」

もう一度。

母親の胸が、

小さく上下する。

息を吸う。

止まる。

吐く。

また、

長く止まる。

少女は、

そのたびに数を数えた。

一。

二。

三。

四。

五。

六。

七。

八。

九。

母親の胸が動く。

少女は息を吐く。

まだいる。

また、

数える。

一。

二。

三。

外では、

誰かが咳をしていた。

肺の奥から、

何かを削り取るような咳。

一人ではない。

家の向こう。

道。

隣家。

もっと遠く。

村のあちこちから、

同じ音がする。

後に、

白枯病と呼ばれる病だった。

最初は熱。

次に咳。

呼吸が浅くなる。

食べられなくなる。

水も飲めなくなる。

そして、

身体そのものが弱っていく。

末期には血の気が失われ、

唇も、

指も、

枯れたように白く見えた。

それで人々は、

白枯れと呼んだ。

村では、

もう十七人が死んでいた。

昨日、

三人。

今日、

朝から二人。

少女の母親は、

次だと言われていた。

「水」

母親が言った。

少女は立ち上がった。

器を持つ。

水瓶。

ほとんど空。

少しだけ汲む。

母親の口元へ。

「ゆっくり」

母親は、

一口も飲めなかった。

水が唇から流れる。

少女は布で拭いた。

「ごめんね」

母親が言う。

「何が?」

「……何でもない」

「水、まだあるよ」

「うん」

「飲む?」

「あとで」

少女は、

水の器を置いた。

母親は、

また目を閉じた。

少女は、

その手を握る。

冷たい。

「お母さん」

「うん」

「寝ないで」

母親は、

少しだけ笑った。

「眠いの」

「だめ」

「少しだけ」

「だめ」

「どうして?」

少女は答えられない。

眠ったら、

起きない気がした。

だから、

「だめ」

とだけ言った。

母親は、

また笑った。

「分かった」

その約束が、

守れないことを、

二人とも知っていた。


SCENE 02/14 できること

村には、

医者が一人いた。

セツ。

老人だった。

三日前から、

ほとんど眠っていない。

家から家へ。

患者から患者へ。

薬。

水。

布。

熱。

呼吸。

何度も診る。

治せない。

それでも診る。

少女の家にも、

一日に二回来た。

その日の夕方。

セツは、

母親の胸へ耳を当てた。

長い。

少女は、

医者の顔を見る。

何も言わない。

「先生」

返事がない。

「先生」

「……うん」

「治る?」

老人は、

少女を見た。

答えられない。

「薬は?」

「使ってる」

「もっと」

「使ってる」

「もっと強いやつ」

「ないんだ」

「町に取りに行けば」

「町にもない」

「王都は?」

「……」

「王都ならある?」

セツは、

ゆっくり首を振った。

「じゃあどうするの」

答えがない。

少女は、

医者の服を掴んだ。

「どうするの」

「できることはやる」

「治してよ」

「やる」

「違う!」

少女は叫んだ。

「治して!」

母親が、

弱い声で言う。

「やめなさい」

少女が振り返る。

「でも」

「先生は悪くない」

「でも!」

「こっちにおいで」

少女は、

母親のところへ戻る。

セツは、

しばらく立っていた。

「夜、また来る」

そう言って、

家を出た。

外。

別の家から、

誰かが呼ぶ。

「先生!」

セツは、

そちらへ走った。

少女は、

その背中を見ていた。

一人の医者に、

村中が、

助けてと言っている。

でも、

医者の手は、

二本しかなかった。


SCENE 03/14 祈り

その夜、

一人死んだ。

次に、

もう一人。

少女には、

名前も知らない人だった。

でも、

泣き声は聞こえた。

村の中で、

何度も同じ言葉が聞こえた。

「助けて」

「お願い」

「まだ死なないで」

「誰か」

「先生」

「神様」

「何でもするから」

「助けて」

その村だけではなかった。

それ以前にも、

同じ言葉はあった。

病気。

飢饉。

事故。

戦。

出産。

溺れた子。

倒れた父。

血を流す兵士。

熱に浮かされる母。

人は、

ずっと言っていた。

助けて。

誰に向けているのかも、

分からないまま。

聞いているものがいるのかも、

分からないまま。

祈りは、

答えを必要としなかった。

答えがないからこそ、

何度も繰り返された。

助けて。

助けて。

助けて。

世界のどこかで、

誰かが終わりそうになるたび、

同じ願いが生まれた。

その願いは、

神を作ろうとしていたわけではない。

世界を変えようとしていたわけでもない。

ただ、

この人に、

終わってほしくなかった。

そして世界には、

人間が祈り始めるより、

ずっと前から、

終わりがあった。

生まれたものは変わる。

変わったものは、

いつか終わる。

人間が、

それを正しいとも、

間違っているとも呼ぶより前から。

その古い世界のどこかに、

人が後に、

不幻老

と名づけるものも在った。

だが、

その夜。

それとは別の何かが、

初めて、

形を持とうとしていた。


SCENE 04/14 起きない人

少女の母親が、

一度、

息を止めた。

「お母さん?」

返事がない。

胸。

動かない。

「お母さん」

揺する。

反応なし。

「お母さん!」

少女は、

外へ飛び出した。

「先生!」

暗い道。

「先生!」

走る。

転ぶ。

膝を擦る。

起きる。

「先生!」

セツは、

別の家にいた。

少女が扉を開ける。

「お母さんが!」

老人は、

すぐ立った。

二人で走る。

家。

母親。

セツが胸へ耳を当てる。

手首。

首。

口元。

少女は、

立っている。

「先生」

セツは答えない。

「先生」

老人が、

母親の身体へ処置をする。

何度も。

何度も。

少女には、

何をしているのか分からない。

「先生!」

長い時間。

そして。

母親が、

僅かに息を吐いた。

セツが止まる。

もう一度。

微かな呼吸。

「……戻った」

少女が、

母親へ駆け寄る。

「お母さん!」

目は開かない。

でも、

息をしている。

セツは、

その場に座り込んだ。

「先生?」

「まだ」

老人は言う。

「まだだ」

少女には、

その意味が分からなかった。

助かったと思った。

でも、

セツは分かっていた。

戻っただけ。

病気は、

何も治っていない。


その夜。

別の家で、

若い男が死んだ。

セツが着いた時には、

もう息がなかった。

それでも、

老人は手を尽くした。

男の妻が、

泣いている。

「先生」

「お願いします」

「お願いします」

セツは、

やめなかった。

腕が震える。

息が乱れる。

それでも、

男は起きなかった。

その部屋の隅。

誰にも見えない場所に、

白い何かが立っていた。

まだ、

身体はない。

顔もない。

手もない。

名前もない。

ただ、

一つだけ。

助けたい。

それは、

死んだ男へ近づいた。

触れようとする。

何も起きない。

もう一度。

何も。

何度も。

何度も。

何も起きない。

白い何かは、

初めて、

分からないという状態を知った。

なぜ。

なぜ、

この人間は、

起きない。

まだ声はなかった。

だから、

その問いは、

誰にも聞こえなかった。

なぜ、起きないのですか。

答える者はいなかった。


SCENE 05/14 最初の光

翌朝。

少女の母親は、

まだ生きていた。

だが、

呼吸はさらに弱くなっていた。

セツが来た。

診る。

「今日?」

少女が聞いた。

老人は答えない。

「今日死ぬ?」

母親が、

「そんなこと聞かないの」

と小さく言う。

「だって」

「大丈夫」

「本当に?」

母親は、

答えなかった。

少女は、

母親の手を握った。

昼。

熱が上がる。

夕方。

唇から、

さらに血の気が失われる。

夜。

母親は、

少女の名前を呼べなくなった。

「お母さん」

目が開く。

焦点が合わない。

「私だよ」

母親は、

僅かに笑った。

たぶん。

少女には、

そう見えた。

呼吸。

一。

二。

三。

止まる。

四。

五。

六。

動く。

また。

一。

二。

三。

四。

五。

六。

七。

動く。

少女は、

数え続ける。

数えれば、

次の息が来る気がした。

十。

十一。

十二。

母親の胸が動く。

「大丈夫」

誰に言っているのか、

分からない。

「大丈夫」

また止まる。

一。

二。

三。

四。

五。

六。

七。

八。

九。

十。

十一。

十二。

十三。

動かない。

「お母さん」

十四。

十五。

「お母さん」

十六。

十七。

少女は、

数えるのをやめた。

「先生」

セツは、

すぐ横にいた。

何もできない。

「先生」

老人の顔が、

崩れた。

少女は、

そこで初めて理解した。

この人にも、

できない。

大人にも。

医者にも。

誰にも。

少女は、

母親の胸へ顔をつけた。

僅かに、

心臓が動いている。

まだ。

完全には、

終わっていない。

「誰か」

少女が言った。

誰に向けた言葉でもなかった。

「誰か」

返事はない。

「お願い」

母親の服を握る。

「お母さんを」

声が震える。

「助けて。」

何も起きない。

少女は、

泣きながら、

もう一度言った。

「お母さんを助けて。」

その瞬間。

村中の灯りが、

消えた。


SCENE 06/14 十本の手

暗闇。

そして、

白。

最初は、

小さな光だった。

少女の手と、

母親の胸の間。

一粒。

それが、

大きくなる。

セツが目を覆う。

「何だ」

光は、

人の形になる。

脚。

身体。

頭。

腕。

二本。

さらに。

肩の後ろから、

別の腕。

四。

六。

八。

十。

十本の腕。

どれも、

誰かへ伸ばすための形をしていた。

身体は、

若い。

少年にも、

少女にも見える。

白磁のような肌。

目は閉じている。

頭には、

塔のような冠。

背後。

巨大な円。

完全な円。

欠けていない。

歪んでいない。

胸には、

まだ何もない。

白い存在は、

母親を見る。

そして、

手を伸ばした。

一つ。

額。

一つ。

胸。

一つ。

喉。

一つ。

腹。

残る腕は、

空中へ伸びる。

何かを探すように。

少女が、

息を止める。

母親の胸が、

動いた。

大きく。

一度。

咳。

母親が、

激しく咳き込む。

セツが駆け寄る。

脈。

呼吸。

皮膚。

熱。

老人の顔が変わる。

「……何だ」

病が、

消えたわけではない。

熱もある。

咳もする。

身体も弱っている。

だが、

さっきまで死へ落ちていた身体が、

生きられる側へ戻っている。

「先生」

少女が聞く。

「お母さん、死なない?」

セツは、

答えられない。

代わりに、

白い存在が少女を見る。

目は、

閉じたまま。

初めて、

声が生まれる。

「今は。」

少女は、

泣いた。

母親へ抱きつく。

「お母さん」

母親の手が、

ゆっくり、

少女の背中へ触れる。

「……どうしたの」

弱い。

でも、

声。

少女は、

泣きながら笑った。

「起きた」

母親は、

何も分かっていない。

「寝てた?」

「うん」

「ごめんね」

「いいよ」

少女は、

母親を抱いた。

そして、

白い存在を見る。

誰なのか知らない。

何なのかも知らない。

ただ、

母親を助けた。

少女は、

白い存在へ近づいた。

小さな手が、

その胸に触れる。

「ありがとう、神様。」

その言葉が、

世界で初めて、

その存在へ、

役割ではない意味を与えた。

神様。

胸。

少女の手の下。

白しかなかった場所に、

金色の光が灯る。

小さな太陽。

少女の感謝が、

神を作ったわけではない。

少女一人の願いが、

神を生み出したわけでもない。

けれど、

助けたいという形しか持たなかったものは、

その時初めて、

自分が何をする存在なのかを知った。

人を、

救うもの。


SCENE 07/14 助けて

翌朝。

村で噂が広がった。

死ぬはずだった女が、

生きている。

白い神が現れた。

祈れば来る。

助けてくれる。

最初に来たのは、

老人だった。

孫を抱えている。

「お願いします」

白い存在は、

子供を見る。

救う。

次。

妊婦。

救う。

次。

青年。

救う。

次。

老人。

救う。

次。

母。

父。

子。

妻。

夫。

知らない人。

白い存在は、

区別しなかった。

「助けて」

救う。

「お願い」

救う。

「まだ死にたくない」

救う。

「この子だけでも」

救う。

十本の腕が、

次々と伸びる。

一人。

二人。

十人。

二十人。

セツは、

それを見ていた。

自分が何日かけても、

何人救えたか分からない。

目の前の存在は、

次々と、

死にかけた人間を、

生きられる状態へ戻していく。

「……すごい」

老人は、

それしか言えなかった。

白い存在が、

セツを見る。

「あなたも、助けていました。」

セツが止まる。

「私は」

自分の手を見る。

血。

薬。

汚れ。

「ほとんど救えなかった」

白い存在は、

少しだけ首を傾げた。

「それでも。」

セツは、

顔を伏せた。


SCENE 08/14 できないこと

三日目。

男が、

遺体を運んできた。

若い。

布に包まれている。

「お願いします」

白い存在が見る。

「息子です」

父親が、

遺体の前へ膝をつく。

「昨日死にました」

白い存在は、

近づく。

手を伸ばす。

何も起きない。

もう一度。

何も。

「お願いします」

父親が言う。

白い存在は、

胸へ触れる。

額。

喉。

腹。

十本の腕すべてを使う。

光。

強く。

さらに。

何も。

少女も見ている。

「神様」

「助けてあげて」

白い存在は、

続ける。

何度も。

何度も。

それでも、

男は起きない。

父親が、

泣きながら言う。

「お願いします」

白い存在の顔に、

初めて、

明確な困惑が現れた。

「なぜ。」

誰も答えない。

白い存在は、

死んだ男を見る。

「なぜ、起きないのですか。」

セツが、

遺体を見る。

そして、

静かに言った。

「もう死んでいるからです」

白い存在が、

セツを見る。

「先ほどの人々も、死に近かった。」

「近かった」

「違いは?」

セツは、

少し黙った。

「まだ、生きていた」

白い存在は、

遺体を見る。

「この人は?」

「もう、終わった」

終わった。

白い存在は、

その言葉を、

しばらく理解できなかった。

父親が泣く。

「神様でも無理なのか」

白い存在は、

答えられない。

助けたい。

だが、

できない。

それでも、

嘘はつかなかった。

「はい。」

父親は、

息子を抱いた。

白い存在は、

その前に立っていた。

助けたい。

でも、

助けられない。

その願いは、

初めて、

届かなかった。


SCENE 09/14 病気を治すもの

白い存在が現れても、

白枯病は消えなかった。

次の日にも、

新しい患者が出た。

その次の日にも。

セツは働き続けた。

患者を分ける。

水を煮る。

布を洗う。

空気を入れ替える。

人を密集させない。

食べられる者には、

少しでも食べさせる。

白い存在は、

死へ落ちそうな人間を戻す。

セツは、

戻った人間を治療する。

白い存在が、

ある日聞いた。

「なぜ、まだ病になるのですか。」

セツは、

薬を作りながら答えた。

「病気がなくなったわけじゃないからだ」

「私は、助けました。」

「助けた」

「では、なぜ。」

「助かったことと」

セツは、

薬草を潰す。

「病気そのものがなくなることは、同じじゃない」

白い存在は、

患者を見る。

救った子供が、

まだ咳をしている。

昨日救った老人が、

まだ寝ている。

最初に救った少女の母親も、

まだ歩けない。

「私だけでは、足りないのですか。」

セツの手が止まる。

「足りない、じゃない」

白い存在を見る。

「できることが違うんだ」

白い存在は、

しばらく考えた。

その日からも、

二人は働いた。

一方は、

死ぬしかない命を、

生きられる側へ戻した。

もう一方は、

その命が、

明日も生きられるようにした。

どちらかだけでは、

足りなかった。


SCENE 10/14 名前

数週間後。

死者は減った。

新しい患者も減った。

村に、

少しずつ生活が戻る。

ある日。

少女が、

白い存在へ聞いた。

「名前は?」

「ありません。」

「神様じゃないの?」

「あなたが、そう呼びました。」

「みんなも呼んでる」

「はい。」

「じゃあ神様?」

白い存在は、

少し考える。

「分かりません。」

「名前ないと呼びにくい」

少女は考える。

「先生は?」

セツが困る。

「私に聞くな」

村人たちも、

それぞれ勝手に呼んでいた。

白い人。

十手様。

円の神。

命様。

助け神。

その中で、

一人の老人が言った。

「道を戻してくださる」

「道?」

「死ぬしかなかったところから、生きる道へ」

誰かが、

空を見上げた。

「天から、道を?」

別の誰かが言った。

「天導」

少女が、

繰り返す。

「テンドウ」

白い存在を見る。

「天導」

白い存在は、

その音を聞いた。

嫌とも、

良いとも言わない。

ただ。

「はい。」

その日から、

人はその神を、

天導

と呼んだ。


SCENE 11/14 伸びる手

天導の十本の腕について、

後に多くの説が生まれた。

十の命。

十の奇跡。

十の戒律。

どれも、

後から人間がつけた意味だった。

天導自身にも、

なぜ十本なのか分からなかった。

二本の腕は、

人間へ伸びた。

残る八本は、

時折、

何もない方角へ伸びた。

山の奥。

深い森。

古い道。

境の向こう。

誰もいない荒野。

人間が祈る時。

その祈りを辿ろうとすると、

さらに向こうに、

何かがある。

天導には、

それが何なのか分からなかった。

人間より古い。

自分より古い。

神と呼ばれているのかすら、

分からない。

ただ、

世界のずっと深いところに、

何かが在る。

八本の腕は、

ときどき、

そこへ伸びた。

なぜ、

八本なのか。

天導自身も、

知らなかった。


SCENE 12/14 不幻老

村を離れる日。

天導は、

山道で、

一つの異形に会った。

蜘蛛のような脚。

老人の顔。

古い金属。

高い帽子。

人間が、

後に不幻老と呼ぶもの。

二柱は、

しばらく互いを見る。

天導が聞く。

「あなたの近くでは、人が終わりますか。」

不幻老は答える。

「どこでも終わる」

天導は、

少し黙った。

「私は、それを止めたい。」

「そうか」

「嫌ではないのですか。」

「何が」

「私が、終わるはずだった人を助けることが。」

不幻老は、

天導を見る。

長く。

「知らん」

天導は、

少し困った。

「……また、それですね。」

「何が」

「知らない、と。」

「知らんものは、知らん」

天導は、

初めて、

ほんの少し笑った。

山の向こう。

誰かが、

助けを求めている。

天導が振り返る。

「私は行きます。」

「そうか」

「人を助けます。」

「そうか」

天導は、

歩き出す。

不幻老は、

止めなかった。

戦わなかった。

正しいとも、

間違っているとも言わなかった。

ただ、

通り過ぎる天導を見た。

天導も、

不幻老を倒そうとはしなかった。

まだ、

理解できなかった。

なぜ、

世界には終わりがあるのか。

そして、

不幻老も、

それを説明しなかった。


SCENE 13/14 神様

最初に救われた少女の母親は、

すぐには元気にならなかった。

長く寝込んだ。

咳も残った。

歩けるようになるまで、

何週間もかかった。

少女は、

毎日水を運んだ。

飯を作った。

失敗した。

焦がした。

母親に怒られた。

「塩入れすぎ」

「食べられるよ」

「しょっぱい」

「じゃあ水飲んで」

「そういう問題じゃない」

二人で笑った。

普通の日だった。

天導が与えたのは、

幸福ではなかった。

病気にならない身体でも、

永遠の命でも、

完璧な人生でもない。

ただ、

その日に終わるはずだった命が、

まだ続けられる状態へ戻った。

それだけ。

だから、

次の日には、

次の日の問題があった。

少女は転ぶ。

母親は怒る。

飯は焦げる。

雨は降る。

喧嘩もする。

そして、

笑う日もある。

ある夕方。

天導が、

村を離れる前。

少女は、

もう一度会いに来た。

「行くの?」

「はい。」

「どこ」

「呼ばれている場所へ。」

「また戻ってくる?」

「あなたが助けを必要とするなら。」

少女は、

少し考える。

「必要じゃなかったら?」

天導は、

微笑んだ。

「それが一番よいと思います。」

少女も笑った。

そして、

天導の胸へ触れた。

最初の日と同じ場所。

そこには、

金色の小さな太陽がある。

「これ何?」

天導は、

自分の胸を見る。

「分かりません。」

「綺麗」

「そうですか。」

「うん」

少女は、

手を離す。

「ありがとう」

太陽が、

少しだけ明るくなった。

それは、

天導を強くするための光ではなかった。

何かの力を蓄えているわけでもない。

ただ、

救った人間から受け取ったものが、

そこに残っていた。

天導は、

それを見る。

助けた人間が、

次の日を生きている。

声を出す。

怒る。

笑う。

また、

誰かを好きになる。

それを見ると、

天導は、

また助けたいと思った。

もっと。

届くなら、

もっと多く。

少女へ言う。

「あなたが苦しむ必要はありません。」

少女は、

首を傾げた。

「でも、転んだら痛いよ」

「はい。」

「お母さんに怒られても嫌」

「はい。」

「友達と喧嘩したら泣く」

「はい。」

天導は、

少し考える。

少女が笑う。

「全部助けるの?」

天導は、

真面目に答えた。

「できるのであれば。」

少女は、

また笑った。

「忙しいね、神様」

天導も、

ほんの少し笑った。


SCENE 14/14 最初の神

その後。

白枯病は、

別の町へ広がった。

天導は、

そこへ行った。

救った。

さらに別の村。

救った。

街。

救った。

道端。

救った。

戦場。

救った。

出産。

事故。

感染症。

倒壊。

溺水。

毒。

火傷。

天導は、

何でもできるわけではなかった。

病そのものを消せない。

戦争を止められない。

壊れた家を建て直せない。

死者を蘇らせられない。

届かなければ救えない。

気づかなければ救えない。

それでも、

届いた命を、

死ぬしかない状態から、

生きられる状態へ戻した。

一人。

十人。

百人。

千人。

人々は、

祈った。

ありがとう。

助かった。

生きている。

神様。

天導様。

天導は、

その声を愛した。

称賛だからではない。

生きている人間の声だから。

死んでいたかもしれない人間が、

声を出している。

それが、

嬉しかった。

だから、

天導は救い続けた。


そして、

人間の願いは、

一つではなかった。

会いたい。

忘れたい。

叶えたい。

ここから出たい。

離れたくない。

もう間違えたくない。

選べない。

助けてほしい。

時代が進むにつれて、

天導とは違う形の救いも、

世界に現れ始めた。

その理由を、

当時の人間は知らなかった。

古いものと、

新しいものの関係も。

祈りと、

救いの関係も。

何一つ、

体系にはなっていなかった。

後の人間は、

それらへ名前をつけた。

分類した。

教義を作った。

そして、

救いを与える存在を、

天律

と呼ぶようになった。

けれど、

天導が生まれた夜には、

そんな言葉は存在しなかった。

八つの体系も、

救済の教義も、

神々の序列も、

何もなかった。

最初にあったのは、

死にかけた母親の横で、

何もできなかった少女の、

小さな声だった。

「お母さんを助けて。」

それを、

何かが聞いた。


人が願い、

原天が孕み、

天律が生まれた。


そして、

最初に生まれた神は、

世界を正そうとはしなかった。

人間を導こうとも、

支配しようとも、

完成させようとも思わなかった。

ただ、

目の前の人間を、

助けたかった。

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